椿

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 婚礼の準備のため清之介の実家に汽車で帰る時のことだった。  春先になると雪が溶け、川が増水し平地の線路まで流れた。次の駅より先はいけなくなり、知らぬ土地の宿に泊まることになった。    八畳ほどの一間の真ん中には炬燵、日に焼けた畳が足裏に冷たい。  隅にはストーヴ、衣文掛けにだらりと掛かった着物、その下には二人の荷物の風呂敷包みとズックの旅の鞄。  小夜子は炬燵で冷えた足を暖め、清之介は窓の外の暗い景色を見ていた。  自然の造詣に沿って作られた曲がりくねった田圃と、人よりも虫や鳥の息づく土地の中で、川沿いにぽつんとこの宿が一つだけがある。部屋の両側の襖の隣部屋からは、何の音も聞こえない。  二階には誰も泊り客がいないのだろう。川のせせらぎが激しい雨音のように近くに聞こえる。汽車の中で緊張していた清之介が、むっつりと黙り込んでしまったので、小夜子は仕方なくお茶をいれたり、みかんを剥いたりしていた。   「今頃、迎えに来てくれているおじさまたちは心配しているわね」  窓の枠に肘を置いて遠くを見ていた清之介は、「うん」と小さく返事を返しただけだった。  見知らぬ小さな駅に降り、実家に連絡できない事を気にして心配している小夜子とは別に、清之介はまったく子供じみた事で拗ねていた。 「ねえ、清之介さん。いつまでもそうしていないでお風呂、行きましょう」  宿の主人が、二人を見て言った一言を清之介がずっと気にしているのを小夜子は知っていた。だから宿の主人が部屋の案内をしてくれている時も、大人びたようにほとんど口もきかなかった。  部屋へと案内してくれる廊下の途中で宿の主人が振り返り、二人を見て愛想よく「ご兄弟かね」と言った一言に、清之介が一瞬言葉を失い、そして同時に小夜子は思わず顔を背けて小さく笑ってしまった。  宿の主人の目には二人の関係が、夫婦はおろか男女の関係にすら見えていなかった。主人が小夜子を姉として見ていることも態度で明らかだった。  実際、小夜子は清之介よりひとつ年上であったし、顔付きも童顔の清之介に比べて、小夜子は顔立ちがはっきりしている。身長も差して変わらなかった。  こんな時間に突然泊めてくれ、などという男女二人を、邪な目で見るでもなく姉弟とあっさり見られてしまうのは、清之介の外見の幼さゆえだ。  清之介は曖昧な笑顔で「そのようなものです」と答えていたけれど、落ち込んでいるのは目に見えていた。  春の宵闇、ぼんやりとした月に風が心地いい。  宿の裏から石段を降りていった川沿いに、男湯、女湯に分かれた小さな小屋と大きな川原石で囲まれた露天風呂がある。宿の庭先にあった立派な桜の木からひらひらと花びらが散り落ちてきて、美しかった。   誰もいない露天風呂で、こんな時いつもなら風呂の境の板の向こうで歌でも歌っていそうな清之介が静かなのも、ずっと宿の主人の言葉を気にしているからであった。  そういうところが子供なのよ、と小夜子は口もとをほころばせ内心思ったが、口にはしなかった。
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