13人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
「美月、何で、どうしたの」
動揺した声を出して、湊が私の頬に触れる。指先が、新たにこぼれた涙をすくう。私は湊の手を振り払った。強く振り払ったせいで、湊の手がキューティクルオイルのボトルにぶつかった。音を立ててボトルが床に落ちる。
「美月……?」
言葉が何も出てこない。その代わりのように、涙が流れ続ける。それをせき止めたくて、ぎゅっと目を瞑った。そうしたらよみがえった、あの冬の日の光景。見ひらいた目。怯えたような表情。私のなかのお兄ちゃんを切望する眼差し。――ねぇ、お願い。もう一度。
「……お兄ちゃんの、代わりでよかったの」
「え」
「私は、それで嬉しいから」
息を呑む音が聞こえた。力なく目をあけると、戸惑った表情で私を見つめる湊の瞳とかち合った。また、涙がひとつこぼれる。私は手を伸ばした。「ねぇ、昔、キスをしたこと覚えてる?」引き攣れた声で問うた。「……覚えてるよ」と湊が答えた。ついさっきまで湊に慈しまれた指先、それで湊の頬を包んだ。柔軟剤の匂いがそばで香る。ねぇ、お願い。お願い、湊。涙を流しながら顔を近付ければ、すうと湊が目を瞑った。私ははっと息を止めた。ぎゅっと眉根を寄せた湊が、過ちを懺悔する表情をしていたから。
結婚するんだ、と言った湊の喜びの声を思い出す。結婚式をして、祐也くんと一緒に暮らす。ふふ、こんな日が来るなんて思わなかった。湊の、幸福そうな声を思い出す。
「……っ、う、うぅ……」
喉の奥から嗚咽がもれた。私は湊の頬から指先を離して、テーブルに泣き崩れる。
お兄ちゃんが湊を愛さないことがごく自然に当たり前な世界で、湊の恋の成就が困難なことが明白に当たり前な世界で、どうか世界に絶望して、失意のままに私に惑ってほしかった。私の、切れ長の二重まぶたはお兄ちゃんと同じ。薄いくちびるもお兄ちゃんと同じ。そのほかにも、きっといくつかの同じがあるから。キスをするのは私じゃなくていい。私のなかのお兄ちゃん――湊の切なる初恋でいいから。目を瞑ってふたりで寄り添い合って、愛を永遠に喪失したまま、ままならない世界を嘆いていたかった。
けれど、湊には幸せな結婚が待っている。もう、私と湊の眼差しは重なり合わない。
最初のコメントを投稿しよう!