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「今日ね、電車で隣に座った人がさ……」
沙羅がそういうのを心はうんうんと頷きながら、和やかに聞いてくれる。
たとえそれがネットの中の架空の世界だったとしても、沙羅にとって幸せな時間だった。
彼と出会ってから1年ほど経つ。
お互いのことをたくさん話した。
けれどなかなか前に進んでいかない関係に、沙羅はモヤモヤしていた。
「心くん、私、心くんに会いたい」
勇気を振り絞り、沙羅がそう書き込む。
「ありがとう」
いつもすぐ返ってくる返信だが、数分してから返ってきた返事はその一言だけだった。
たったその一言でも、沙羅は心の気持ちが分かった気がした。
一年ずっとやり取りしていて、その世界だけの心だったとしても沙羅には彼がどういう意味でそう言ったのか、理解出来た。
そうか、と沙羅は思った。
うんうんと頷いてくれた顔も、微笑んでくれた顔も、自分の想像じゃなく、自分の目で見てみたいって思ったのは、自分だけだったんだ。
言わなければよかった。
些細なことを夜に語り合って、朝起きたら、「おはよう」って言って、帰ってきたら「おかえり」「ただいま」って言い合って、寝るときには「おやすみ」と言う。
これだけで幸せだったはずなのに、どうして先のものに手を伸ばしたくなってしまったのだろう。
リアルとネットの世界は近いようで遠い。
似ているようで、全然違う別世界。
顔も知らない人と、なんでも話せる。
繋がれる。性格だって分かる。
それなのに、これを恋というと笑う人がいるだろう。
これを失恋といえば、おかしいと言う人がいるだろう。
だからここから卒業しよう。
分かっている。
恋にルールがないことも。
ただ彼の中のルールに、沙羅がいなかっただけだ。
ルールに乗っ取られているこの世界は狂っているのかもしれない。
いっそ消えてしまえばいい。
この気持ちも、彼との会話も、全部。
少し冷たくなった指で、沙羅はアンインストールをタップした。
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