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その日は久しぶりにこちらへ来た旧友と酒場で飯を食っていた。彼は学生のころと比べていくらか腹が出ていたが、口から出る訛りや思想はあの頃と全く変わらなかった。それを聞いて私も気を許して普段より酒を飲んだ。最近流行りの麦酒から辛口の酒を二人で飲んだ。杯を重ねるにつれて意識が朦朧とし、同時に陽気になっていく。
二時間もすれば夜も酔いも随分深くなったので、私たちは店を出た。勘定はどちらが払ったのか、そもそも勘定をしたかどうかも覚えていない。
友は学生の時分に住んでいた下宿先を押さえているらしく、「じゃあまた」と言って別れた。手を振り返した後、私は転ばぬように注意しながら夜道を歩いていった。森閑とした帰路と冷たい風が酔いを醒ましてくれた。そうなると、私はもう一軒寄りたくなった。ふらつく足を運んで見つけた酒場は建物と建物の間に窮屈そうに建っていた。しかし、私はそれがことさら気に入って戸を開けた。君はすでに知っているかもしれないが、その時の私は気分が良かったのだ。
店の中は外観よりも細くて小汚かった。席は六つしかなく、一番奥の席で女が静かに杯を傾けているだけだった。三つばかり上に見える女を前にして私の体は吸い寄せられるように奥へと進んだ。私は自然と隣に座った。椅子が思いのほか冷たくなくほっとした。
「おひとりですか」と訊ねると、彼女は私に一瞥をくれて「ええ」と答えた。そしてさほど興味のないようにまた杯に目を落としていく。それから白い手を杯に伸ばして小さくぷっくりと膨れた唇までもっていき、くいと傾ける。唇の端から垂れる酒を指で拭う所作が妖美に見えた。私は自分の酒を頼むことも忘れて彼女を見つめていた。
しばらくして店主らしき旦那が声をかけてきたので、私は燗と杯を頼んだ。私の酒が到着すると、彼女がふいと顔を上げた。
「お酌いたしましょうか」
私が頷くと彼女は私の前の燗を手にしてちょろちょろと杯に注ぐ。杯に酒が溜まる間、私はいつの日か君に言われた言葉を思い出していた。
『犬よりも猫のような女を傍に置くと良い』
一言一句の自信はないが、確かこんな意味だったと思う。その時の私は君の言うことに首を傾けることしかできなかったが、今の私は大いに頷ける。私の見た限りでは彼女はまさしく猫のような女だった。
乾杯をして一口飲むとまた強く頭が揺れる心地がした。酔いが醒めただけであって、酒は依然として私の体中をめぐっている。しかし、私は悪い気はしなかった。彼女もよく笑う人であった。私の話を聞いては笑い、するりと杯を干しながら私の杯に酒を注ぐ。次第に私も調子が良くなってきた。
「今日はどうしてこの店に」
私の問いに彼女は「誰かと飲みたい日でしたから」とささやくように答える。私はさらに彼女のことを知りたい衝動に駆られた。これが酒の力か、はたまた色恋なのかは君の判断に任せるとしよう。
「それでもご家族は心配なさるでしょう」
私が気を使うと思いのほかあっさりと彼女は否定をした。
「主人は用があって九州に行っております。毎年のことで」
私はすぐに納得した。旦那がいない日でもないとこうして外に出られないのだろう。それが年に一度のことであれば、今夜は彼女にとことん付き合うことを胸に誓った。
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