酒場の女

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 十二時を過ぎたころだろうか。「そろそろ帰りましょう」と彼女が言った。私としてはもう少し彼女と話していたかったが、酔いが思った以上に回っていたことも確かだった。「そうですね」と言って二人して店を出た。  依然として強風が人の消えた街を縦横無尽に舞っている。先に出た彼女の髪が乱れていく。 「お宅はどちらですか」  私は自分の家と反対側でも送っていくつもりであったが、聞いたところは私の家までの途中に位置していた。  それから私たちはゆっくりと帰路へ向かった。私は何か話そうかと口を動かしてみたが、言葉は一つも出てきやしなかった。酒場で見た彼女とは一転して、少し視線を落とした彼女は寂しそうに見えたから。きっと暗いせいだと思った。  その時だった。歩く私と彼女の影が次第に濃くなっていくことに気づいた。私たちは何気なく空を仰いだ。すると、あれほどせわしなく動いていた雲が月を避けるようにしてぽっかりと穴が開いていた。そこから青白い月の柔らかい光が私たちもとに微かに届く。彼女が足を止めたので私も歩くのを止めた。そして視線を彼女へ移したのだ。  そこに立っていたのは桜だった。君は私が酔いすぎて脳を溶かしたとでも思っているだろうが、私はこの時のことを鮮明に覚えている。店で見た赤ら顔の頬に月光の光が相重なって淡い桃色に色づいた。 「美しいですね」  私の口がようやく声を出した。彼女は「ええ」と頷いた。 「この季節の月は格別です」 「私とって月の光は単なる照明にすぎません」  彼女は眉をひそめてわからないといった顔をする。私はさらに言葉をつづけた。 「その光を集めて輝くあなたが美しいと私は言ったのです」  私という人間が、女に向かって「美しい」と口にしたのはこれが初めてのことである。そして、この言葉を言われて女性が喜ぶのを私は知っていた。  しかし、私は彼女の異変に気付いた。彼女の頬よりも輝くものが彼女の目から鱗の様に零れ落ちた。それが涙と分かるまでにしばらくかかった。そしてなぜ泣いているのかはしばらくたっても理解できないでいた。 「あんまりです」と言って彼女は私から離れてそそくさと闇へ走り去った。私は出遅れたおかげで追うことができなかった。  結局私は一人で帰ることになった。一つの影になった途端、寒さが襲ってきた。私はできるだけ体を小さくして家路を急いだのだった。  あれから三日も経つが、彼女に会うことはなかった。昨日あの酒場に顔を出したが、彼女は来ていないと店主が教えてくれたのでそのまま戸を閉めて帰った。  君も知っての通り、私は女に慣れていない。あの日はおそらく酒の勢いに押されてのことだったと思う。しかしだ、私が彼女に言った「美しい」は酔いからの言葉ではない。あれだけは本心だったと胸を張って言おう。  だからこそ、彼女が泣いた理由がわからず、今でもあの時の彼女の顔が頭に思い浮かぶ。  年の瀬で君も忙しいだろうが、なるべく早く手紙をよこしてくれることを切に願っている。
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