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5、助言者
扉がパッと開き信之助が現れた。一気に力が抜けるような安心感と同時に、彼の右手からパッと離れたものに驚愕した。殴られた宝屋がのびている。いくら殴りかかっても届かなかった自分の拳。それを、信之助はいとも簡単に……
有之助は膝から崩れ落ちた。
いつも顔にたたえる陽気な表情は跡形もなく、信之助の顔には怒りを通り越して悲痛そのものが浮かんでいた。
「遅くなった」
信之助は傷だらけの有之助を抱えると部屋を飛び出し、屋敷から夜の町へ走り出た。今頃になって鼻が折れていることに気付いた。その痛みが激痛となって襲い、有之助は痛みと悔しさで兄の背中に額をこすりつけた。
「ごめん、信……母さんのそばにいるって、約束したのに」
「泣くな」
信之助は走りながら言った。
「お前の分、母さんの分。俺が、ぜんぶまとめて殴ってやった。母さんは無事だ。なにも心配いらない」
有之助はその一言で涙を拭った。
「母さんは協会の簡易病棟にいる。もうあんな場所に戻る必要はない。二度とだ」
信之助は協会の建物がある場所まで走り抜けた。大きな門をくぐり抜け中に入ると、簡易病棟のベッドに母が横たわっていた。有之助はすぐさま駆け寄って母の手を握った。あまりにも痛々しい有之助の姿を目に入れた母は大粒の涙をこぼした。
「母さん。よかった、本当によかった」
母は泣きつく有之助と信之助を両手いっぱいに抱き寄せると2人の頭を優しくなでた。きっと口が利けたなら、こんな無茶をするなと言っただろう。
「大丈夫だよ」
有之助は言った。
「ね? 信」
「あぁ」
「協会の会頭と話はできたの? 請願書は?」
「ちゃんと受理されたよ。他の主人になってくれる人を探してくれるって。お前も、母さんも一緒に」
有之助はみるみる目を輝かせ母の手を取り舞い上がった。こんなにうまく話が進むとは思ってもいなかった。
「やった! やったよ母さん! もうこんなつらい思いはしなくていい! ありがとう、ありがとう、信!」
「だから言ったろ? 今の会頭は、ちゃんと話せば分かってくれるって」
翌日、有之助はしばらく母の世話をしてから協会の外に出た。悲しくなるほど美しい夕焼けが町全体を染めていた。遠くではカラスが鳴いている。でも、心はもうじき訪れる幸せを思い描き幸せいっぱいだった。なにより、もう宝屋の屋敷に戻らなくてもいいのが最高だった。
協会で提供される食事は米とお吸い物に日替わりのおかずなど、十分すぎる内容だった。ここならひどい目には遭わないし、信之助の言った通り安全な場所だ。
信之助が買い物に出掛けている間、医者らしき男が来て母を診てくれた。
「ここではどうしようもない」
「どうにも?」有之助は肩をすくめた。
「残酷なことを言うようだが、いずれ放っておけば命があぶない。早く次の主人を探した方が身のためだ。ちゃんと身の保証をしてくれるよい主人に出会えればの話だがな。まぁ、いまどき病人の使用人を雇ってくれる人間なんていないだろう」
「信は、会頭に話して次の主人を探してくれるって言ったんです」
医者は母に聞かれないよう有之助の肩を抱くと小声で言った。
「本当はこんなこと言いたくない。でも、現実を教えてやろう。ここで寝ている病人たちは皆半年後には姿を消す。なぜだか分かるか?」
有之助は不安に押しつぶされそうな顔で首を横に振った。
「協会が処刑するからだ」
「え……?」
「協会は守ってくれない」
「そんなの、ありえない! 会頭は、信をいい主人に出会わせてくれた人なんです」
医者は指を信之助の胸に突きつけた。
「いいか、ここで生き残れるのは金を持つ者、善良な主人に買われた者、病気のない者、協会に逆らわぬ者だけだ。忘れるな。うそだというなら、協会の裏にある黒い建物を見てくればいい」
有之助は医者から言われた言葉を自分1人で抱えた。協会はちゃんと毎日食事も出してくれるし、次の主人だって探してくれている。それなのに、なぜあの医者はあんなひどいことを言うのだろうか。
協会裏手には巨大な石碑があり、奥には黒い建物が見えた。煙突からは不気味な黒い煙が立ち上っている。
なんの前触れもなく、恐怖心をあおるように強い風が吹いた。木々がきしめき、わびしい底抜けの不安が襲った。
有之助は1人の若い男が立っているのを見た。建物に気をとられていたせいで、全く視界に入っていなかった。男も有之助と同じように、ただ黙って黒い煙を見上げていた。男はこの寒い季節に薄手の着物を着ていた。
「寒くないんですか?」
そう問い掛けると男はゆっくり振り返った。
「あぁ、これっぽっちもな」
まるで平気といった口調で男は答えてくれた。
「あの黒い建物がなんだかご存じですか? 医者に言われてあの黒い建物を見に来たんです」
優しそうな男の顔が急に険しくなったので、有之助はいい返答をもらえそうにないと直観的に思った。
「処刑場だ。罪人を処罰するための」
「そんな、ありえません」
半ば信じたくないという思いから否定的なことを口走っていた。男は皮肉をこめた目で処刑場をじっと見た。
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