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その39 過去との対峙
気付けば、意識は深い闇の中に浮かんでいた。
(まただ、ジュディスさんの時と同じ――)
サニーはすぐに状況を察した。大量の水に包まれているかのような浮遊感、何も見えない闇の中でありながら全身を抑えつけられるような圧迫感。ジュディスの『影』に呑み込まれて、彼女の記憶に入り込んだ時と同じだ。
(私はセレンさんの茨に捕まった。きっとその所為で、あの時と同じことが起こったんだ)
ということは、これから始まることも想像がつく。自分はこれから、セレンの記憶と向き合うことになるのだ。
今のセレンを、彼女の『影』を育て上げた原点。最初のボタンを掛け間違え、そのままずるずると行き着くところまで行ってしまった原因。
(知りたい。セレンさんの心を、彼女が辿ってきた人生を)
闇の中で、サニーは気持ちを固めた。今更知ったところで何になる、という声も心の一部で上がってはいた。だがそれよりも、セレンの内面にもっと深く触れてみたいという願いが勝った。単なる好奇心からだとは思わない。曲りなりにもこれまで交流を育んできた、自分とそう歳の変わらない少女に対しての憐憫みたいなものだろうか。
それとも少し、違う気がする。
(――っ!? な、何!?)
不意に、身体が何処かへ引っ張られるような感覚がした。これは、ジュディスの時とは違う。
サニーの身体と意識は、闇の中でうねりを上げる見えない奔流に揉まれて何処ぞへ流れ着こうとしている。目を閉じ、歯を食いしばって必死にその衝動に耐えていると、不意に身体を包み込んでいた圧迫感が消えた。
「こ、此処は……!?」
思わず声に出して恐る恐る目を開くと、辺り一面を覆い尽くしていた闇は綺麗に取り払われており、代わりにくすんで色褪せた景色が広がっていた。
「えっ? まさか此処って、お屋敷の中!?」
全ての色彩がすっかり抜け落ちてはいるが、サニーはその光景に見覚えがあった。間違い無い、自分が今立っているのはレインフォール家の館の一室だ。広い間取りで構成されたこの部屋は、シェイドが自己を鍛錬する時に使っていた部屋だと聴いている。家具の類いは無く、代わりに置かれた武具入れや防具立て等が印象的だった。
「もっと強く踏み込め、セレン!」
聴き馴染みのない声がして、サニーは初めて部屋の中に誰かが居ることに気付いた。声のした方へ振り返ると、髪と髭を綺麗に整えた中年と思しきひとりの男が、稽古用の動きやすい装束を着た小さな少女に向かって木剣を構えている。
「いきます、ご主人さま! たぁぁーっ!」
中年の紳士に向かって少女が声を張り上げ、手にした木剣を振りかぶる。まだ年端のいかない舌足らずな声であるが、艶のある黒髪を揃えたその幼い顔立ちにはサニーのよく知る面影があった。
「セレン、さん……?」
小さなセレンが、目の前で中年の紳士と激しく斬り結んでいる。見た目の幼さに似合わない、冴え渡った剣筋だった。対する中年紳士も自由自在に木剣を操り、セレンの打ち込みに全て合わせてゆく。二人の剣戟はまるで舞台劇のように華やかで美しく、乱暴な行為の筈なのに何故かちっともそうは見えない。木剣を向け合う大人と幼女の顔はどちらも楽しげで、満ち足りた時間を存分に味わっているようにサニーには感じられた。こうして傍でただ見ているだけで心が惹き付けられるようだ。
「はぁ……! はぁ……! ありがとうございましたっ!」
やがて充足の時も終わり、セレンは行儀よく木剣を退くと中年紳士に向かってペコリと丁寧にお辞儀した。
「おつかれさま、セレン。素晴らしい打ち込みだったよ」
部屋の隅からもうひとつ別の幼い声が上がる。セレンと中年紳士の戦いに心奪われていたサニーは、そこでようやく我に返り声の主を探した。
優しげな微笑みを浮かべてゆっくりとセレンに歩み寄ってきたのは、薄紫の髪をした端正な少年。やはりその顔も、見覚えがあるものだった。
「シェイドさん……」
少年の姿をしたシェイドが、同じく小さなセレンにタオルを手渡す。嬉しそうにそれを受け取ったセレンは、汗を拭きながら眩しい程の笑顔をシェイドに返していた。
それはまるで、本当の兄妹であるかのように温かい人情味に溢れていて――。
「シェイド、次はお前だ。さあ、木剣を取って構えなさい」
セレンとは対照的に汗一つ流していない中年紳士が、戦いの余熱に浮かされることなく平静な口調でシェイドに命じた。
「はい。よろしくお願いします、父上!」
「えっ……!?」
背筋に悪寒が走った。考えてみれば、察して然るべきだった。さっきセレンが『ご主人さま』と言っていたではないか。
穏やかな表情でシェイドやセレンを見つめている、あの中年紳士こそが――
「そう、あの御方こそ我が生涯の主。シェイド様のお父上、ジャック様です」
すっかり聞き慣れていた声が近くから上がった。サニーから少し離れたところで、サニーの良く知る姿のセレンが佇んでこの光景を見つめていた。
「幼かった私達は、こうしてよく彼に稽古をつけてもらっていました。シェイド様は、将来『影喰い』のお役目を引き継ぐ為に。私は、シェイド様の影として従者として彼を護り切れるように」
人間の姿に戻ったセレンは、僅かに薄めた眼差しを在りし日の三人に注いでいる。遥かな過去を懐かしむようであり、二度と戻らぬ日々を哀しんでいるようでもある。
「思えば、この頃が一番幸せだったのかも知れません。少なくとも、私は笑うことが出来ていた」
「セレンさん……」
サニーは、セレンの言葉に導かれるようにもう一度過去の彼女に目を向けた。記憶の中のセレンは実に快活であり、生気に溢れていた。サニーの知る今のセレンの様子からは、ちょっと想像がつかないくらいだ。
「ジャック……先代様は、本当に優しく思慮深い御方でした。孤児の私を引き取り、シェイド様と同等の待遇で育て、あらゆる技能や教養を与えてくださいました」
セレンの言葉に従うように、サニー達を包む景色がぐるりと回転して目まぐるしく変化してゆく。
シェイドと並んで机の前に座り、開いた本にペンを添えてジャックの講義を受けているセレン。
ジャックに監督されながら、館の掃除を行うセレン。
シェイドと共に厩舎に入り、ケルティーの世話をするセレン。
彼女の記憶が、彼女の思い出が、次々と泡のように浮かんでは消えてゆく。そこに映るセレンもジャックも、ただ普通に今の幸せを享受しているように見えた。
だが、この裏で二人は――
「先代様に真実を告げられたのは、私が十三の齢を数えた頃でした」
次に切り替わった場面は、これまでとは違う雰囲気を帯びていた。黒く染め上げられたカーテンで覆われた暗い部屋の中で、セレンとジャックが向かい合って立っている。セレンを見下ろすジャックの顔には感情の起伏が表れておらず、彼を見上げるセレンの表情は愕然としていた。
「この時、私は初めて先代様の抱える闇に触れ、その果てしない深さと暗さを垣間見ました。そして私は――彼の意志に尽くすと決めたのです」
サニーを見つめるセレンの目に、その闇が寸分余さず落とし込まれていた。全ての感情を殺した、光のない眼差し。
「先代様とシェイド様は、私がこの世界で生きていると信じられる掛け替えのない縁。父を知らず、母を喪った私にとって、ただ二人の家族でございました。レインフォール家は私の居場所、私の世界全て。先代様の御意志は、私の意志です」
呪いのように紡がれるセレンの想いに導かれるように、流れ行く記憶がどんどん陰惨さを深めていく。それは、ジャックの影となりその代行者としての役目を果たしてゆく、セレンの姿だった。
記憶の中で、彼女は凶刃を振るい返り血を浴びて無表情に佇んでいる。何度も、何度も。アンダーイーヴズのあらゆる場所で、彼女はその手を血に染めていた。
「貴方が初めてじゃない」
サニーは、セレンの声が悪魔そのものであるかのような錯覚すら感じた。
「レインフォール家の闇に、先代様の真実に近付こうとした者は、尽く私が葬ってきた。誰に知られず、ひっそりと。貴方もまた、そのひとりに過ぎない。……その筈だった」
ゆらり、と幽鬼のように身体を揺らめかせるセレン。サニーは、圧倒的な悪意と敵意に気圧されそうになるのを必死に堪えていた。
「なぜ貴方は、あの人の心を彼処まで掴んでしまったの?」
幽鬼の言葉に、初めて感情が混ざる。それは、抑えきれない程の怒りと恨み。そして――嫉妬だった。
「なぜあの人は、貴方の笑顔に彼処まで安らいだ様子を見せるの?」
幽鬼がこちらに一歩踏み出す。その溢れ出す怨念と共に。
「なぜ私は、あの人に無垢なままでいてほしかった私は――あの人に見てもらえないの?」
セレンの姿は、いつしかあの禍々しい狂気に満ちた『影』のものに変わっていた。今、現実でサニーを絡め取り、今にも引き裂かんとしている執念の権化に。
「先代様までも喪った私には、もうシェイド様しか居ないのに――!」
(……ああ、そうか)
サニーは不意に気付いた。セレンが心の奥底に仕舞った想いに。
ただ女として、シェイドに振り向いてほしかったんじゃない。セレンはただ、セレンの知るレインフォール家という居場所を護りたかっただけだ。シェイドとジャックだけが、彼女にそれを与えてくれた。だからこそ彼女は、ジャックの見せた心の闇に同調して従ってしまったんだ。
だとしたら、言うべき言葉は決まっている。サニーは、急速に心の中から力が湧いてくるのを感じた。
一度、大きく深呼吸をしてセレンを見据える。さっきまであった怖いという感情は、もう無い。
おもむろに口を開き、自分の想いを舌に乗せた。
「その理由は分かりすぎる程にはっきりしているよ、セレンさん」
セレンの動きが止まる。サニーは肚に力を込め、心で祈った。
(お願い、シェイドさん。どうか、あたしに勇気を頂戴!)
脳裏に浮かぶ、あの優しい微笑み。サニーの心に息づく薄紫の髪の紳士が、心の闇を体現した怪物に立ち向かう力を与えてくれる。
「あなたがジャックさんの意志を尊重し、シェイドさんの意志を無視したから」
「――!」
サニーが放った言葉は、間違いなく怪物の急所を衝いた。
「シェイドさんはずっと願っていた、街を覆う呪いを解きたいって。それがジャックさんの目的と相反するものだと知っていたから、シェイドさんに隠し続けたんでしょう? あなたも、ジャックさんも、これまでずっと。でもね……」
サニーは大きく息を吸い、ありったけの気持ちを込めて言葉を放った。
「後ろめたいことを抱えながら、永遠に今までと同じでいたいなんて無理なんだよ!!」
「ア――!」
世界が揺らぐ。サニーの大喝に激しく狼狽えるかのように。
「シェイドさんが大切なら、シェイドさんと自分の生きる世界を守りたかったのなら、あなたは戦うべきだった! ジャックさんの心の闇に! 記憶にある、優しいジャックさんを信じるべきだった!!」
サニーは確かに見た。セレンとシェイドを見つめる、ジャックの穏やかな眼差しを。二人に掛けた愛情の、その一端を。
彼処に、答えはあったんだ。
「今からでも、きっと遅くない! 戦ってよセレンさん! シェイドさんの為に! レインフォール家の為に!!」
叩き付けられたサニーの叫びを受けて、暗闇の世界にヒビが入る。それは八方に広がり、隈なく視界を覆い尽くす。
そして、サニーの目の前で全てが砕けた。
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