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守りたいものは
昨今、地球の人口が爆発的に増加していることは、周知の事実であろうか。
進む医療、惜しげもなく提供される延命措置、それらの発展にともなって老人の健康寿命は延伸、生殖医療の制約のない解禁で、世の夫婦、パートナーらは何人も子供を持つことができるようになった。
「アイ? 寝ちゃったのか?」
ひとり娘のアイが、リビング横のおもちゃ部屋から出てこない。北川がドアを開けると、やはりそこで丸くなって眠り込んでいた。
アイを軽く抱き上げ、二階まで上がる。部屋の引き戸を片足で器用に開け、ベッドにそっと寝かした。
アイはすうすうと寝息を立てて、よく眠っている。その小さな額に自分の額をそっとくっつけると、まだ5歳の幼さとその体温が伝わってきて、愛しさがぶわりとみぞおちあたりに広がっていった。
「アイ……」
死んだ妻の忘れ形見。
数年前、幸せな家族の団らんは、突然の交通事故によって失われた。
妻の死。絶望。数年は、抜け殻のように過ごした。
ただ。心の支えは、一人娘のアイ。
アイを幸せにしなければいけない。アイを幸せにするのは、自分しかいない。
覚悟を決め、ようやく立ち直ることができた北川は、長年続けていた不動産関係の会社を辞めて独立し、今の個人事務所を立ち上げた。フリーランスなら、育児に時間を割くこともできる。
『空間コーディネーター』
近年、人口爆発の流れを追いかけるようにして、人は地球の陸地だけでなく、その陸地の上に存在する『空間』をも、有効活用できるようになった。それは歴史に刻まれるべき、革新的な発明のおかげである。
空中に、ある種のボックス型の空間を固定できる技術が生み出された。空間に一つの部屋を創生し、そこに家具や生活用品を運び込んで、一般の住宅のように住まうことができるようになるなどとは、驚きしかない。
空気のみが無意味に漂っていた空間を有効活用できると知ると、次々に企業が参画し勢いを増して発展、人々の居住空間と化していったのだ。
その『空間』は紆余曲折を経て、現在は『エアリアルルーム』と名付けられている。
いわゆる『空間不動産』として、現在は売買されているのだ。
そんな『エアリアルルーム』を依頼人の希望通りにコーディネートする、それが空間コーディネーターの仕事。
確かに不安定な職種ではある。しかも前会社よりは遥かに小規模となったが、高額の不動産を個人で取引するというだけで、足が震える思いがする。また、ひとり娘を抱えたまま独立という勝負に打って出ることは、シングルファーザーである北川の立場を心配する友人や同僚たちを、はらはらとさせたことには間違いない。
北川はアイから額を離すと、亡くなった妻が溢れんばかりの愛情を持って手をかけた、アイの部屋をぐるりと見渡した。
「けどまあ、こんな仕事をしている割に、うちの家は地に足がついたフツーの一軒家だけどなあ」
北川はアイの寝顔を見つめながら髪を撫でた。
ひとつため息をつく。
この一軒家。
妻や自分が欲していたのは、明るく笑顔の絶えない家庭。庭や窓のない、ある意味真四角な箱でしかないエアリアルルームなんかは、最初から候補に入らなかった。
「だからって、棺とか墓とか言われちゃうとなあ」
ふと思い出すと同時に、苦さが湧き上がってくる。北川は口元だけで苦笑した。
アイの寝顔。安らかに横で眠っていた妻の寝顔と重なる。アイは妻に似ている。最近そんなことをとみに思うようになった。
そんな寝顔を見ながら、北川は父親が持つべき決意をさらに新たにする。
(必ず、アイを幸せにしてみせる)
仕事を選り好みしている場合じゃない。
北川はアイを起こさないようにとそっと部屋を出て、一階へと戻った。仕事用のデスクの引き出しから一枚の名刺を取り出す。名前と電話番号だけの、いたってシンプルなものだ。
『夜爪 鞠』
その名の通り、夜空を想起させる漆黒の髪。その黒髪の艶やかさはまさに、空からこぼれさす星の光のようだった。
スマホを取り出した。
すうっと深呼吸をし息を整える。電話番号をひとつひとつと押していった。
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