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求めうる
「どうせ定年になったら、エアリアルルームを一つ買おうって思ってたんで、まあ良いきっかけになりましたよ」
突然の余命宣告は二年。
それを受けてひとりの老人が、北川の事務所を訪ねてきたことがある。
「そこで余生を静かに過ごしたいんです」
エアリアルルームを購入後。
心が安らぐ空間をとの願いで、畳を敷き、炬燵を設置し、傍らに火鉢を置いた。
そして出来上がった空間が、老人の故郷の生家そのものだったことに気づいた時。
込み上げてくるものがあったのだろうと思う。老人ははらはらと涙を流した。実母と過ごした幼き日のことをぽつりぽつりと語りながら。
「ありがとうございました。これで心穏やかに、余生を過ごすことができます。北川さん、あなたには感謝してもしきれません」
「お役に立てて良かったです。僕としても佐川さんに喜んでいただけて、本当に……感無量です」
「今はもう田舎の家は処分してしまったんでねぇ。このエアリアルルームでお袋のことでも思い出しながら、静かに過ごしますよ」
胸にぐっとくるものがあった。その時に初めて、この仕事を選んで良かったと思った。その後、老人が余生をどう過ごしているのかは、月に一度、手描きの絵手紙にて近況が届く。
しかし、だ。
その『余生』の意味はわかる。老人の場合、定年後十数年が経っていたし、病魔に侵されて余命宣告という、ある意味引導も渡されてしまっているわけだから。
けれど、夜爪はまだ若い。三十歳。美人だし、どう見てもまだこれからだ。
北川は、ティーカップを取り、口をつけた。紅茶の茶葉の苦味が、喉に絡みつく。けれど鼻の奥から薫香が何度かすり抜けた時、気持ちはいつしか落ち着きを取り戻していた。
「先日はその……う、狼狽えてしまって、申し訳ありませんでした」
北川が深く頭を下げると、夜爪がいえいえというように首を振った。物憂げな瞳と、それに付随する落ち着いた雰囲気。見ようによっては『達観』とも受け取れた。
まさかこの若さで余命宣告を受けているのだろうか?
変に邪推してしまう。
「いえ。私のお願いの仕方がいけませんでした。きちんと順を追ってお話しするべきところを……こちらこそ言葉足らずで、すみませんでした」
夜爪が頭を下げる。相変わらず滑らかな黒髪だ。今日は丸いとんぼ玉のついたヘアゴムで、右肩よりにまとめられている。切り揃えられた前髪。
じっと見ていると、それが不自然にふわっふわっと揺れた。足を斜めに崩そうとしているようだ。座布団の上とはいえ、正座がきつかったのだろうか。
ふっと小さく吹き出してしまった。
「ああ、気がつかずすみません。足。崩してくださいね」
北川が言うと、それを追うようにしてさらに、身体を左右に揺らした。足の位置を変えたらしい。困ったような表情で、座りの良い位置を探す。
「正座があの……少し……苦手で」
「そっちのダイニングのテーブルに移動しますか?」
北川が促した先には、アイが座っていて、新聞紙やら自由帳やらを広げて、なにやら一生懸命に絵を描いている。夜爪がその様子を見て、顔を戻した。
「いえ大丈夫です。なんだかアイちゃん、集中しているみたいだし、邪魔はできないかな」
北川は頭を掻きながら、言いにくそうにして呟いた。
「事務所が自宅なんで、こういう時はどうしても……普段なら保育園に行ってる時間なんですけど、今日は少し微熱があったもんだから、預かってもらえなくて」
「私こそ無理を言いました。日にちを伸ばしても良かったんですけど、明日から数日、出かけてしまうものですから……」
「いえ。お客様にこちらの都合に合わせてもらうわけにはいきませんから……大丈夫ですよ」
北川は手帳を開いた。使い込まれたペンで、カレンダーの先の日付にチェックを入れた。
「だいたい一週間ほどで、まずは見積もりを作ります。その後の契約完了の大体の目安は、まるっと一ヶ月後です。それで、夜爪さんのご希望をお訊きしたいのですが、エアリアルルームをどのような感じにしていきましょうか?」
「…………」
一瞬、間があった。けれど、すぐに夜爪は話し始めた。
「あの私、日記を書いているんですが……」
「日記を書いていることはお聞きしています」
「はい。それで、今後も日記を書き続けていきたいと思っていますので、『日記の部屋』をコンセプトにしていただきたいのです」
「『日記の部屋』……ですか……」
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