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日記を綴る
少し戸惑ったが、さすがに理解できないわけではない。
ペンを進めながら、北川はさらに訊いた。
「日記を書く部屋となると、やはり落ち着いたインテリアでまとめた方が良いですね。お嫌いじゃなければ、畳を敷いて和風にすることも可能です。意外と和風を所望する方が多くいらっしゃって、エアリアルルームの中に箱庭や囲炉裏を作ったこともあります」
夜爪は少し考え込むように俯き、そして北川が事前に渡しておいたエアリアルルームの契約書やパンフレットに目を落とした。
「あ! でも正座が苦手でしたね」
慌てて訂正する。
すると、北川の声に反応した夜爪の顔に、笑みが宿った。
(わ、笑った)
ただし、その微笑は長くは続かない。一瞬輝いた瞳は、伏せられた長い睫毛によって隠されてしまった。
その睫毛も。今どきは珍しく人工的ではない、自然なものだ。化粧は薄づきで、あっさりとしている。その素朴な趣きや容姿には、良い印象だけを持たされていた。依頼内容は別にして。
問題はその依頼内容だが、要は日記を書く部屋を用意すればいいのだなと、算段をつける。
「いえ……日記を書く部屋が欲しいわけではないんです」
一気に雲行きが怪しくなった。
「どういうことです?」
「どう言ったらいいのかな……」
口元にゆるく曲げた人差し指を持っていく。
「部屋自体を日記にしたいんです。部屋=日記ということなんですが……」
「それは今日いちにちあったことや日記に書くべきことに関するインテリアやグッズかなにかで、部屋を飾り付けていくということでしょうか? 例えばその日、アイドルのコンサートに行ったとしましょう。そこで購入したコンサートグッズなどを飾る、とか?」
そうなればコレクションケースや棚などを揃える必要がある。北川は窓際に設置してある本棚に並ぶ、インテリアや家具などの分厚いカタログに視線をずらした。
「そういうのともまた違うんですが……」
視線を戻す。なかなかに要領を得ない。こんなよくわからないフワッとした依頼あるか? そっとため息。
ふと視線を感じてリビングを見る。するとアイがさっきまで夢中で折っていた折り紙の手を止めて、こちらをじっと見ていた。
「……あの、すみません。実を言うと、私にもよくわかっていなくて」
顔を戻す。
「はあ」
本人がわからないなら、他人がわかるはずがない。困惑しかない。
「ただ、日記にしたいだけなんです。購入するエアリアルルームに、なんの意味も持たせなくていいんです。空っぽでいいんです。この行為に意味などないんです」
「…………」
夜爪が苦く笑う。それでも口元は氷のように感情を持っていない。
「すみません。これではますますわからなくなっちゃいますね。いったん帰ります」
立ち上がろうとして、ぐらりと揺れた。足が崩れ落ちそうになるのを、ぐんっと踏ん張っているようにも見えた。
北川は、あっと思い、手を差し出した。夜爪がとっさにその手を取る。
「大丈夫ですか」
「すみません。思ったより足が痺れてました」
その手。夜爪の細い指。手の甲の白さに血管が透けて見えそうな。
体温は? 氷のようにひどく冷たい。こちらが驚いて、手を引っ込めてしまうところだった。雪女かと思うほどの冷たさ。
女性の手を取った気恥ずかしさもあって視線をリビングへとずらすと、テーブルについていたアイがいつのまにか、すぐそばに立っていた。
手をそっと離した。
「あ、アイ、どうした?」
すると、アイが手に持っていたものをぐいっと出してくる。
それは、四角く薄っぺらな形。積み木だった。
幼児対象の知育玩具。表にはひらがなの「あいうえお」の「五十音文字」がひとつ。裏にはその文字から始まる「言葉」のイラスト。
例えば、表が「う」であれば、裏は「うさぎ」。表が「な」であれば裏は「なす」。
ひらがなを覚えるための積み木だ。それは亡くなった妻が生まれたばかりのアイにと用意したもの。
「これあげる」
アイが差し出したものを手に取り、夜爪がまじまじと見る。
それは、『あ』。
裏を返すと、『あり』の文字と、黒い蟻のイラストのはずだ。
けれど、夜爪はふっと吹き出した。口元が緩み、目尻が少しだけ、下がったように見える。
(ん? なんだ?)
覗き込むと、油性ペンで『あり』という文字が『あい』と書き直してある。
北川もふすっと吹きそうになってしまった。
「なにやってんだよ、アイは」
夜爪ももらった積み木を差し出しながら、「ありがとう。でもこれ、アイちゃんの大切な積み木だから、貰うわけにはいかないわ」と言う。
「いいよ、これまだいっぱいあるから」
「アイ、あげちゃうのか?」
亡き妻がおもちゃ売り場で1時間、熟考して購入したものに、惜しい気持ちがにじみ出ていたのだろう。夜爪がその声のトーンに気づいたのか、アイへと優しく手渡した。
「アイちゃん、これはアイちゃんの大切な『あ』だから、せっかくあげるって言ってくれたけど、貰えないかな。けれど、アイちゃんのお陰ですっごく良いことを思いついちゃったの」
夜爪が北川へとなおり、そして言った。
「購入するエアリアルルームに、この積み木で日記を書くことにします。どうでしょうか?」
「え? ……え?」
いまいちその真意を掴めずにいると、アイがぴょんっと飛んでから大声で叫んだ。
「面白そうっっ」
夜爪に飛びつかんばかりにジャンプする。夜爪も両手を叩いて楽しそうにアイの様子を見ている。
「良いアイデア思いついちゃった。アイちゃん、ありがとう」
もう一度笑った顔が、純真無垢な子どものようだった。
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