48人が本棚に入れています
本棚に追加
秘密
ある日の午後、その男性はなんの前触れもなく、北川の事務所へとやってきた。
「エアリアルルームを秘密裏に購入したいのですが、出来ますか?」
名刺には、NNPコーポレーションとある。ネット事業を幅広く展開しつつ数年前、東証マザーズに上場を果たしているベンチャー企業だ。
役職はCEOとはあるが、まだ20代半ばくらいだろう。
だが北川は驚いた。いや混乱するのも仕方がない。その男は稀代の若手実業家として各メディアにも引っ張りだこで、そのスタイリッシュな立ち居振る舞いとイケメンな顔に「国宝級」と格付けされている、芸能人並みの人気を博す男だ。
その大物がなぜ、うちのような小さい事務所に依頼に来たのか?
何度も首をひねるうち、この奇跡のような訪問が懇意にしている学生時代の友人の功績によるものだと聞いて、ようやく少し正気を取り戻した。
「トマツトイの大谷さんが、うちの北川は世界一口が固いと太鼓判を押していました」
(うちの、な)
大谷とは確かに同じ大学で学んだ同期だ。一緒にイベントサークルを運営していた仲間の中では1番の出世頭で、大手の玩具メーカーに就職したのち、現在は社長の右腕にまで登りつめている。
「大谷の紹介ですか。どうりで……」
正直ありがたかった。大谷はうちの事情を良く知っている。娘のアイも大谷には懐いていて、大谷宅に遊びに行けば、大谷の奥方や娘たちにも可愛がられていた。
ここで良い仕事をすれば、他の顧客も紹介してもらえるかもしれない。心が踊った。
「では、ご依頼内容をお聞きしましょう」
だが、そんな期待も直ぐに叩きのめされた。
依頼の件は秘密にして欲しいと念押しされたのだ。
「購入したエアリアルルームをこのメモの通りにコーディネートして欲しいのです」
渡されたメモを見る。
「え? ……えっと……?」
愕然とした。意味がわからない。失礼ながらも何度もハテナを連発してしまった。
「どうしてこんな……え?」
北川がさらに声を上げた。もちろん否定やら嫌悪やら驚嘆やらの複雑な意が込められている。
けれど、そんな北川の様子も御構いなしと、滝川がさらに書類を渡してくる。どこで手に入れたのか、不動産売買の契約書。すでに記入済みで捺印もされていた。
「北川さん。あなたは口が固いとお聞きしていますが、その通りですね? 渡したメモは、私が寝食を削って検討し、導き出した大切なものです。私のライフワークと言っても良いでしょう。どうかそのメモの通りにお願いします。共感して欲しいとは言いません。けれど、請け負っていただくならば、ケチのひとつでもつけて欲しくないのです」
秘匿。
最後にテーブルへと滑らせて寄越してきた書類は、ご丁寧にも契約内容の漏洩禁止を謳うハンコが、表紙のど真ん中にバシッと捺されている。
「……こんなものまで」
「出来ないなら出来ないとはっきり言ってください。北川さんが無理だと仰るなら他へ持ち込むだけですから。けれど、北川さんが受けてくださるなら、提示した依頼料を倍にしても構いません」
倍にせずとも、すでに破格の金額だというのに。が、それはさて置いて。
きっぱりと言い切る無駄のない説明に、脱帽した。やり手社長の手腕を見た気がして、少しだけ日和ってしまった。
「受けていただけますか?」
滝田は鋭い眼光で、北川を睨みつけ決断を迫ってくる。
「とは言え、北川さんは断れないでしょうね。大谷さんの顔もあるから」
「んー」
観念した。確かに旧友の面目を潰すわけにはいかない。
「……わかりました。やります」
大谷の名前も腹に響いたが、なによりこの一件をつつがなくこなせば、アイのこれからの教育資金のほとんどが賄える報酬を受け取ることができる。
秘密の書類とメモとを受け取る。次々とサインをしていき、それが終わると滝田は帰っていった。その後、北川は秘密の書類を鍵のついた金庫へとしまった。
「パパ、なんかあったの?」
秘するものを抱え込んでしまったという緊張感が伝わったのか、心配そうにアイが覗き込んでくる。確かに持ち込まれた依頼内容に躊躇はしたが、依頼自体はそれほど難しくないし、もともとあまりベラベラと喋るようなタイプではないから、性格上、秘密も貫き通せるはずだ。
仕事を遂行する自信はあった。
「新しい仕事が決まったんだよ」
「そうなんだ! 良かったね! 今度はどんなお仕事なの?」
(良かったのかどうなのかは微妙なのだが……くうぅぅ話せない)
「はは。それがどんな仕事かはまだ詳しく聞いてないんだ。これから話し合うんだよ」
北川はアイの頭を撫でる。そして余計な口を滑らせないようにと、冷蔵庫に冷やしてあったとっておきのビールを勢いよく飲み干した。
最初のコメントを投稿しよう!