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「おーい、鷲見ちゃん起きてるか?」
右肩をぽんぽんと叩かれ、意識が昨日から今へ戻ってくる。
「目開けながら寝てんのかと思った」
「違いますよ」
「でも、背筋も伸ばしたまま微動だにせえへんし。器用なんやな」
冗談抜きに、関心したように言われてしまって苦笑い。どんな醜態を見せたのか考えたくもない。昨夜は大変だったのだから。
嘉永先輩はあの後一晩中、止まない雨に付き合ってくれた。深く突っ込まない相槌と真剣な眼差しに緊張が解れ、東雲の時間帯には心地良い眠気に襲われた。
『なあ、今日は出かけてみぃへん? 俺と二人でさ』
遅めの朝ご飯を共にし、今に至る。チラリと横を見れば、腕を組んで首をかくんかくんさせる先輩。
ヨダレが垂れている。お茶目な一面に口元が緩むも、いかんいかんと前を見た。これでは変態じゃないか。
すると、女子二人と男子一人の三人組が目に入った。高校生くらいの垢抜けない顔だ。
広告のある壁に凭れる男子の両肩に、頭を預ける女子二人。変わった光景だと思ったが、よく見ると女子の顔が似ている。
双子と幼馴染……いや、双子の好きな男子かな?
ポケットからスマホを取り出し、メモアプリを開く。怪しまれないよう平静を装いながら文字を打っていた。今度のネタに使えそうだと。しかし。
『とりあえず今日一日、小説のことは忘れること』
様子を見に来るにはでかい荷物を持ち込んだ先輩と約束を交わした。理由は有耶無耶に流されたのでわからない。
画面が暗くなると、頭上の方で垂れ目がちの男性が映り込む。
「……なんか、ごめんな」
「こちらこそ。他の方へは気を付けてくださいね」
「肝に銘じておかんとな。姪っ子にも嫌われたくないし」
なんだか話はズレているが、嘉永先輩には姪っ子がいるらしい。初耳だった。
電車を乗り継いでやって来たのは、遊園地だ。
「地元とちゃうけど、高校ん時のダチとよう来たわ」
行き先を聞かなかった私も私だが、先輩のにかりと笑う顔が清々しい。
今日くらい童心に戻ってもいいよね。
「遊び尽くすぞ!」と声を張り上げる大きい子供を見上げながら、早速お揃いの付け耳カチューシャを購入した。──だが。
「見晴らし最高やろ?」
なんと、最初に連れて来られたのが観覧車なのである。互いに下心がないとはいえ、そしていくら晴天の眩しい絶景スポットとはいえ、一番目にこれを選ぶとは。
「なんでこれなん、て不服な顔やな」
「当然ですよ。普通はジェットコースターかメリーゴーランドとか……。入口から攻略するでしょう」
あ、と口に出した時はすでに遅し。先輩は可笑しそうに肩を跳ねさせる。
「それくらい素直な方が気持ちええわ。ほほう、次はそっち行こな」
ゆっくりと上昇していく丸型の箱。陽が時折キラキラと光り、パーク内やさらに向こうの建物が見えてきた。
「昼間の観覧車ってな、誰も見向きせえへんねん。ここ一番奥にあるし、なんなら夜景の方がムード的にはピッタリやろ? それに皆、体力あるうちに好きな乗り物行くからな」
手摺りに肘をかけ外の世界を覗き込む先輩は、メリーゴーランドから降りた若い二人を指さす。偶然、彼らがこちら側を向いたので私は目を逸らそうとした。
背中に大きな手を添えられるまでは。
「でかい対象物は目立つ。やけど、俺らだけを注目すんのは難しいよ」
今朝のコーヒーと自分の髪から香る蜂蜜シャンプーの匂いが濃くなった。先輩の顔もあと数センチで触れる距離にあって、心音が落ち着かない。
悩みを聞いてもらっておきながら夜中に帰すのは理不尽だ、と昨夜の理性はストップをかけた。私は男兄弟の紅一点で育ってきたし、問題なく朝を迎えた。
それに無精髭を剃った精悍な顔立ちを持ち、我儘な後輩に付き合う嘉永先輩なら、好きな人がいてもおかしくない。
うん? だったらこの状況はなんだ。鈍感レベルじゃないぞ。
自分の失態に愕然とする。しかも遅い、遅すぎる。恋愛の苦味を小学生で知ったきり、空想と創作でしか扱っていなかった。頻度も少なめ。
息を止めることすら忘れていると、若い二人は頭を頭を下げて違う方向へ歩いて行った。先輩も離れ、ほっと胸を撫で下ろす。
急用使って帰ろうかな。ただ、作り笑いも嘘も見破られるのは目に見えている。
「この時間帯から優雅に空中遊園するのは贅沢やな」
忙しない私の心を知らない先輩は、感慨深そうに呟いた。目元は憂えており、勘違いにより上がった熱が平熱へ戻っていく。
視線を窓の外へ戻すと、上昇する度に顔を変える景観があった。情報は増えていくのに一つ一つは荒くなる。
「……帰ったら書きたいな」
現実世界から遮断されても、どこか開放的な空間で、ぽろっと本音が零れた。鏡のように先輩も目を見張る。
散々、書けないことを嘆いておきながら馬鹿だと思う。
「いいやん。俺、鷲見ちゃんの話、好きやで? 弱気な主人公が迷いつつ、柔らかく温かい人や物に触れて成長していく。うどんみたいにつるつるって読めるから安心するわ」
「面白い例えですね。ありがとうございます」
先輩にとって最大級の褒め言葉。素直に受け取って感謝をすれば、安心したように微笑まれる。
「冗談とは違うで? ほんと。歩き方を忘れたやんやのうて、ただ単に筋肉痛なだけやと思うわ。たくさん歩いて、走ったら当然疲れるし、どっかになんか起こるやろ」
「筋肉痛……。嘉永先輩の例えは面白いのにわかりやすいですね」
私はつい、吹き出して笑ってしまった。美しい営業スマイルとも、人間関係外向きの笑顔とも違う。口角は痛むどころか緩むばかりで、腹筋が付きそうだ。
それに伴って思い出したことがある。
マリン書店でのバイト面接日。数々の書店と縁がない私が受けた場に、店長の付き添いとして嘉永先輩がいた。
『君、小説書くん? ほー、趣味じゃなくて小説で食べて行けるようにか。ええことやん!』
初めての評価、好感触だった。私が受けてきたところは『小説家になったら辞めるつもり?』『それでフリーター……ね』など、笑顔と笑顔の隙間に呆れが覗かせていた。
嘉永先輩には、店員になってからも何かと声をかけられた。『締め切り近いん?』『むっちゃおもろいなこれ!?』『次、頑張ろ』と。
「鷲見ちゃんがデビューしたらな、特設コーナー作るで?」
「大袈裟ですよ」
「POPも作ったる。書道と絵画がめっちゃ上手い姪が俺の師匠なんや。自信はあるから任せとき」
「もー……、本当に。気が早すぎます。まだ結果も出せていないのに」
トーンダウンした時に限って、頂きに着いたアナウンスが流れる。絶景は昼夜問わずのようだ。私は辺りをぐるりと見回し、胸の奥が煌めいた。
「夢とか目標はな、語ったもん勝ちや」
数秒経ったのち、丸型の箱は動き出す。
先輩の目は景色など映していなかった。あれほどこだわったのに、澄んだ両眼が私を捉える。
「あの場ではっきりと夢を語ったのは、鷲見ゆめだけやった。読者の俺にはわからんバトルと、計り知れん苦労があるやろう。でも、楽しみに待っとる。作家『鷲見ゆめ』の特設コーナーを作るのが嘉永幹の夢なんやから」
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