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「え、あのコンテストに入選したの!? 先越されたー。おめでとう!」
私の拍手を皮切りに、周囲も拍手と笑顔で「おめでとう」と彼女に祝福を贈る。
「ありがとう……ございます、先輩。先輩のアドバイスや後押しがなかったら……あたし、絶対……」
彼女というのはバイトの後輩の梨乃だ。目元は真っ赤だし、産まれたての子鹿のように足を震わせている。まだ実感が湧かないのだろう。
当然だ。一万作品の中からたった五点しか選ばれない、大手出版社主催の超有名なコンテスト。ここ、マリン書店でも入選作品を多く取り扱っている。
私は彼女が落ち着くように手を包み込んであげた。
「可愛い後輩の頼みだもん。出来る限り答えるし、何よりも梨乃が頑張ったからだよ」
「はい……、はい!」
涙まみれだった顔にようやく喜びの色が差す。もともと華のある少女だからか、胸を抑えた男性陣が目の端に映った。
「先輩も応援しています、からね……!」
「うん! やる気出てきたよ」
「はぁ……」
鈍い光が暗い箱を照らす。
首根っこが痛い。どうやら顎を天井に突き上げたまま寝落ちしたようだ。そりゃ痛い。
「いっ、た……!」
大事なことなので三回言う。
オフィス椅子から体を起こしたら、勢いづけすぎたのかそのまま床へ。体がふわっと落ちる瞬間、ノミの心臓は停止しそうになった。
「派手に落ちたな。明日の朝、森山さん宅に謝罪を……って、今週末から家族旅行でしたかそうでしたか」
下の階には八人の大所帯が暮らしている。たびたびお裾分けをくれる、アパートでは唯一仲良くさせていただく御家族だ。子供さん達が冬休みに入り、某有名テーマパークのホテルで五泊六日するらしい。
打ったお尻を擦り、椅子と机に体重をかけてよろよろと腰を上げた。視界に入ったブルーライトの光が追い打ちをかけるように赤らんだ目を傷めてくる。
ノートパソコンに晒されているのは、ほぼ白紙の原稿用紙。訂正、半分は書いたけど二行目まで戻った。
「面白くないや」
スタート地点に戻ってみれば変化すると思ったけど、何も変わらない。手元のプロットも眺めてみるが、あの頃湧き上がった感情は沈んで出てこなかった。そもそも、偽りのフードを被ったつまんないネタだったかもしれない。
ピロン、と通知音が鳴る。
『ゆめ、なぎさ、聞いてよー! プロポッ、ポローズされた!』
既読をつけるとまた通知がくる。ポンポンと卓球みたいに。
『美織、おめでとう。ヘタレ君が動くのに七年かかったね』
「言い過ぎかな。代わりにお祝い会のことを付け足しておこう」
送信ボタンに移動しかけた指を戻し、新たにメッセージを打って送る。渚もいち早く反応したみたいで、また会話のラリーが始まった。
『どこでする?』
『チャペルの下見って、挙式する二人じゃなきゃダメだった?』
私は適当に『明日早いから〜』と返し、延々なる会話から離脱した。
ポコン、ポコン、ポコ──。グループ内の長いラリーは通知音を切ればすぐ静かになる。
ノートパソコンを閉じ、じんじんとする尻を椅子に乗っけた。そうして一回転。大した面白味もなく、腕で作った枕に顔を埋める。はあ、とため息が零れた。
きちんと笑顔で祝えただろうか。
高校の時から交際が続く友人の晴れ舞台も然り。だが、どちらかと言えばバイト終わりのあの出来事だ。
『三角出版社の編集部の者ですが、高梨さんはいらっしゃいますか?』
店長が離せなくて代わりに出たのが私。
接客業に勤しむ梨乃。
有名どころで書店の売り上げ貢献だけじゃない、私も公募経験がある大手出版社。
付録目当てに購入したのがきっかけで、出版社の公募をを知った元常連客。
バイト歴十年、夢を追い続けていたら二桁の年月が経っていた二十代後半の私。
バイト歴半年、夢を見つけて足を踏み出したばかりの十代中期の梨乃。
『先越されたー。おめでとう!』
目を瞑らなくても記憶は思考を駆け抜ける。
まただ。また、先を越された。
少し前は年上の先輩達が、最近では私と同世代の子が。そして、ついに後輩が。
マリン書店には作家希望のたまごが不思議と集まり、殻を破って大空へ羽ばたいていく。ただ、一人を覗いては。
ダンッと激しい音が鳴り、嘲笑うかのように後から痛みが手を襲う。
わかっている。これは八つ当たりだと。一番見苦しい物への当たり。それに皆、良い人達だった。
梨乃も純粋で、明るくて、高校とバイトを両立するとても良い子だ。……だけど。
『おめでとう!』
何回、その祝いを口にしただろう。
『おめでとう!!』
まるでそれしか言えないよう呪われているみたいで。上がる口角も、下がる眉尻もずっも張り付いていて。
両手を使って頬を持ち上げる。辛くても笑えば何とかなると自分の中で決まり事を作った。毎年行われる、スマイル書店員の称号が保証してくれる。
『先輩は来ないんですか?』
梨乃の祝賀会に誘われたが、私は丁重にお断りした。家族が来るからって。全くの嘘だ。
『いつまで夢見てるの。ない夢を食べてもお腹が減るだけじゃない』
ゆめ、という名を付けた親でさえ呆れ顔なのだから。
「でも、ちゃんとお祝いしなきゃな。何が良いかな。あ、話題になっていたリアルすぎる果物の辞典とか。梨乃、フルーツパフェが一番好きって面接の時話していたし。はは、お前が辞書読めってか。それもそうかー……ああ……」
右目に浮かんだ涙が左目に流れて一緒に落ちる。
ペンの動かし方を、知識の活用方法を忘れた。
どうしていたのか、どうすればいいのか、うまく繋ぎ合わせられない。例えるなら歩き方を忘れた、みたいな感じだ。
潮時。努力不足。無駄な努力。無い才能。絶対に叶えられない夢。
数年前から浮かぶネガティブで現実的な言葉達は、私の心の抉り方をマスターしてきた。嫌だと否定し、前へ進んでも、実際には底のない深い穴に落ちているのだと気づく。
体が怠い、目が乾燥する、手足が冷たい。お腹も減らないし、瞼を閉じようがゆめの世界は閉園したみたいだった。
正直、ここまで気分が落ちたのは久々だ。最後に落ち込んだのはいつだったかも忘れたが。
何度目かのため息を吐くと、着信音が響いてきた。出る気もなれず反対側に顔を向けても、スマホは鳴り続ける。
「はい、鷲見です」
鷲を見ると書いて「すみ」と読む。学生時代は読む側の同級生だけでなく、書く側の私も苦労したものだ。おかげで苦手な鳥第一位になってしまった。
「え、鷲見ちゃんどないしたん? 風邪でも引いた?」
関西弁で心配する相手は嘉永幹先輩だ。バイトの先輩であり、もうすぐアラフォーの仲間入りする男性。細かな気配りができ、新人のサポートをよく任されている。
そんな嘉永先輩だから、声質の違いがわかるのだろう。いつもはありがたいが、今に限っては面倒である。
「いえ、先ほど風呂から出たばかりで」
苦し紛れについた嘘も「湯冷めはあかんよ」と柔らかく声をかけてくれる。涙腺が馬鹿になっているみたいで、鼻を擦りながら頷いた。
「かけ直した方がええか?」
「お、お構いなく!」
思いかけず大声で返事をしてしまう。押し当てた耳から心臓の音がしたけど、変に受け取られなかったようだ。
「なら、手短に述べるわな。私情とはいえ、急なシフトチェンジにも対応してくれてありがとう」
「別に感謝されるようなことでは……」
「感謝するよ。鷲見ちゃんのことやから、率先して手を挙げてくれたんやろ?」
まるで、その現場を見ていたかのように嘉永先輩は言う。本来休みの今日は、パソコンと向き合うつもりでいた。そのために二日分のインスタント食品を買い込んだし、締め切りギリギリまでフル活動させるために多種多様の目薬も用意した。
「今度お礼するわな。何でもええよ。コーヒーだけじゃ物足りへんし」
ここにいないはずの人間から、香ばしい豆の匂いがする。バイト後、奢ってもらえる甘さを知らない缶コーヒー。
鼻をくすぐり、細胞同士が刺激し合い、胸の奥がずくんと痛む。
「か……」
「カレーフェスティバルか! 鷲見ちゃん、カレー好きやもんな。夕方の特集でもやっとったわ。因みに俺は豚肉派やで」
掠れた声は嘉永先輩の明るい声と重なって消える。先輩はそういうところがある。最後まで言い終わらないうちに話を進めてしまう。微妙な表情の動きも電話では伝わらない。
その方がいい。本心も、弱音も、嫉妬も。何かに隠され、最初から存在しなかったと片付けられた方が、相手も自分も傷つかない。
『おめでとう』の祝福もその一つなのだろう。
だから、慣れたはずの落選の嵐についに吹き飛ばされ、書けなくなったことを他人に嘆いても仕方ない。私の問題であり、私が弱いからだ。
なのに視界が滲む。鼻の奥に酸っぱいものが流れてくる。
仮に一日休みだとしても、一文字も書けなかったかもしれない。
怖くなってバイトに逃げた。バイトの忙しさを理由にし、初めて見送ろうとした。今から一時間取り組んだところで間に合いっこない。
書けない。書けない? 書けなかった。
「……私、もう無理です……」
青春の全てを読書と物書きに捧げた。夢を追うことをやめられず、スポーツマンだった親の期待を裏切った。
今の私は案外脆かったようで、弱音を吐いたらせき止めていた涙がボロボロと零れてきた。ひっ、ひっ、と不気味な泣き声が続き、口がへの字に曲がって上手く言葉を紡げない。
「鷲見ちゃん、今、家?」
けたたましい音がスマホに当てた耳から聞こえ、しゃっくりを上げて泣く私さえびびる。
「家ならまだ待っといて。外でも安全な場所に移動しやなあかんで」
「家に、いま……」
「了解。あと、スマホは絶対切らんといてな!!」
わけもわからず釘を刺され、唖然とする。
ただ、金具が弾ける音やスニーカーがアスファルトを蹴る音、粗めの息遣いに妙な安心感を覚えた。
十分も経たないうちに部屋のチャイムが連打された。まさか。湿っぽい唇が音のない言葉を発する。未だ繋ぎっぱなしのスマホに目をやると、勝手に扉が開いた。
「生きとるか!?」
書斎同然の寝室に突入するや否や、開口一番に安否確認だ。短髪からは豆粒の汗を噴き出しているのが丸見えで、色あせる黒タンクトップの肩が濃くなっている。血相を変えた先輩の後ろには、状況を掴めていなさそうな大家さんもいた。
「い、いき、生きてます」
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