四. 椿

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 葵が目覚めた際に隣で泣いていた老人は名を帯刀(たてわき)と言い、葵の幼い頃から仕える老臣なのだという。葵が雑炊を口にしている間、帯刀はぽつりぽつりと今までの状況を説明してくれた。  彼によると、数日前に一人屋敷の庭を散歩していた葵は唐突に倒れ、高熱を出したのだという。この頃都に流行る疫病か何かかと慌てた屋敷の者は宮司を呼び、今まで祈祷を続けていたのだが一向に熱が下がらず、一時は命すらも危ぶまれたとか。それでも記憶を失っただけで済んだのだから、きっと仏の加護があったのであろうと、帯刀は皺くちゃの手を擦り合わせながら語った。  しかし、葵の状態は周囲が予想していたよりもひどかった。まず、礼儀作法を全て忘れている。年中行事の類はもちろん、食器の持ち方や畳の歩き方など全てめちゃくちゃだったし、言葉遣いや身のこなしも粗野なものになっていた。その上漢詩文や和歌などの一般教養も抜けており、しまいには文字すら禄に読めないと知った時の帯刀の深い嘆きは言うまでもない。それでも何故か、屋敷の配置だけは使用人が立ち入る場所まで正確に覚えていたのだが。  師忠はこの事実が外に漏れぬよう自身の息子を療養中と偽り、すぐにでも葵の欠けた記憶を全て補わせるように厳しく帯刀に命じた。そのおかげで、葵は一日中書を読み格式を覚え、摂関家の複雑怪奇な家系図を丸暗記しなくてはいけないはめになった。  時には弓や馬術などの比較的楽しいものもあったが基本的には座学ばかりで、体を動かすことの方が得意な葵にとっては苦行でしかない。  その日もいつもと同じように、教本を手に追いかけて来る帯刀から逃げ回りながら庭を駆けていた葵は池の中、母屋から離れたところにひっそりと建つ小さな建物に目を引かれた。 「帯刀、あそこの釣殿は何に使われているんだ?」  ぜえぜえと息を切らせながらどうにか葵に追いついた帯刀に彼は尋ねた。好奇心旺盛な彼は既に屋敷のあらゆる場所に顔を出していたが、板を渡しただけの簡潔な橋でしか本邸と繋がれていないその釣殿にはついぞ訪れたことがなく、何に使われているのかも知らなかった。 「……そちらは……」  帯刀は珍しく口ごもって答えた。 「昔の私は知っていたのではないか?」 「いえ……ご存じなかったかと……」  その煮え切らない態度に葵はますます好奇心を駆り立てられ、帯刀にしつこく付きまとって質問攻めにする。帯刀の方でも、黙っていたところで葵が勝手に釣殿に探検に行ってしまうだけだろうと思ったのか、渋々その重い口を開いてくれた。 「そちらには……若様の妹君がお住まいになっているのです」 「妹が?」  確かに葵には同母、異母問わず何人もの弟妹がいるが、同じ屋敷に未だ顔を合わせたことのない妹がいるとは聞いていなかった。 「同じ旦椋の者だというのに、何故あのような場所で暮らしている?」 「妹君はお体が弱くていらっしゃるのです。ですから決まった侍女しか中には入れず、周りとの交流をできる限り絶っていらっしゃるのですよ。若様もあの釣殿には決して立ち入られませぬように」  帯刀はそう葵に釘を刺すと、ぐいと狩衣の裾を掴んだ。 「それよりも若様、今日こそは筝の稽古に出て頂きますよ……!」  葵は一瞬しまったという顔をしてから、為す術もなくずるずると寝殿へと引きずられて行った。
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