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大量印刷の技術は未だ確立されていない世界。
賑わう街で暮らす一般庶民にも、記憶媒体としての「紙」が、段々と普及してきた時代のお話。
*
同じ文化を享受するアレクサンドの民族は人口、1万~10万の都市国家を多数建設した。東西に長く3000キロを有する都市国家間にて、交易を行い、各国間にて不足なものを補った時代から、東西の大都市を中心に異民族国家との交易により、繁栄を享受する時代へと変遷していく。
『文字屋』は都市国家「コリントス」において書籍の売買を行っている。店の入口には長方の形で、大きく『文字屋』と木彫りの、黒光りする看板が掲げられていた。
大きな机が二つ並ぶ。そこで兄妹は筆を持ち、転写に精を出している。
リンは今年、12歳となった。赤茶色の髪をおかっぱにして、年齢よりも
若干、幼く見える風貌であるが、この少女が記す文字は力強い。少女が記した、写したとは思えぬような勇ましい文字を書く。
その隣で、背筋を伸ばし姿勢正しく、転写を行っているのは、兄のカイトである。21歳を迎え、街の人々からは若旦那とも呼ばれていた。彼の字は美しく、読みやすい。柔和な彼の心持を現したかのような文字を記した。
フッと息を吐いて、カイトは筆を置いた。肩をちょっとほぐしてみる。そして、横で文字を書き写す妹のリンの姿、リンが作り出す文字を微笑みをもって見つめる。
リンに読み書きを主に指導したのはカイト自身であったが、妹のリンが記す力強い文字に対して憧れがあった。自分では作り出すことができない文字を書く妹に対して、嫉妬といったものではなく、純粋に自身にはない才能を見出していた。
カイトはリンが転写を行う姿を飽きることなく、見守ることができたし、また創り出された文字を見るだけで微笑みが生まれた。
カイトからの視線を感じたリンが口を開く。
「待って、兄様、今、終わる」
「うん、大丈夫」
カイトは急ぐことなく、丁寧に仕事を終えるように促した。
リンは視線を書にむけたまま、「はい」とうなづいた。
筆をはねて、リンの手が止まる。息を吐き、筆を置いた。
「はぁ~。終わりー。もぉ、肩こるー。兵法書ではなく、物語がいいなぁ。つまらーん」
原書の兵法書を恨めしそうに睨みながらも、両手でうやうやしく持って、それをカイトに手渡した。
「そう言わずに頑張ってくれ。西の方から注文、多いからね。商売、商売」
「う~。竹取か堤中納言やりたい~」
リンの好みは物語だった。
「リン、私はこれから、カメイロ様の所へ行ってくるからね、ネメと一緒にお店を頼むね」
リンの顔が明るく、ぱあああっと輝く。
「兄様、午後は好きなの書いてもよい!?」
「指導書づくりがまだ、残ってたはずだけど」
妹をがっかりさせるのは心が傷んだが、やるべきことがまだあった。
『文字屋』は書の売買の他に、日曜と雨天の日に限って、読み書きの講義をひらいていた。
識字率は人口の10%程度の時代である。
「あと7人分あったはず」
「え~。リン頑張ったよ。いつも父様は、午後は好きなことやらせてくれたのに」
「父様は留守なのだから、兄の指示に従ってくださいな」
「う・・・。父様、どこにいるのかなぁ。いつ戻られる?」
「う~ん、予定では今月いっぱいだけど、何の連絡もないからね、どうだろう?」
カイトはリンの机の上に指導書の原書を置いた。それを見て、リンは不貞腐れる。
「う~。もう、雨の日の読み書き塾、しばらく止めようよー」
「やめません。楽しみにしてる人がいますから」
「う~!」
リンは2年前、10歳の時に、カイトから一般的な読み書きを学び終えた。リンが店を手伝うようになったことで、カイトの負担が減っていく。そこで彼はずっと温めていた、読み書きに興味を持つ大人も子供も共に学ぶことができる塾、日曜だけでなく、外仕事ができなくなる雨の日にも講義を行う塾を開催できないかと、『文字屋』の主である父のアゾフに相談した。
「やってみるがいいさ」
父アゾフはカイトの提案に対して背中を押した。
あれから2年、カイトはリンに手伝ってもらいながら、塾の運営も行っている。塾ではカイトが指導を行うが、講義で使用する指導書はリンが制作していた。教科書には力強いリンの字がふさわしい。筆圧の違いなど、いろいろな要素があるが、カイトの創る文字は美しく、繊細すぎた。圧倒的な力強さを放つリンの文字が、学ぶ者にとっては、引き寄せられ、魅せられ、学ぶ心を大いに刺激されるのではと考えた。
カイトが不貞腐れているリンを諭す。
「皆、これを手本に読み書きを学ぶのだ。リンの字が先生だから」
「う・・・」
主が留守の店を守るという、最も重大な任務を遂行しながらも、兄として、まだ幼い妹には楽しみながら仕事に取り組んでほしい気持ちもあった。
「わかった。では、午後は4人分終わりにしたら、リンの好きな書を写してよいから」
リンは物語の転写が好みであり、思想的な書や兵法書は好まなかった。もちろん指導書も気が乗らない。リンは自身の好きな物語を、自分の文字で書きあげたかった。
「やった! じゃぁ、3人分終わりにしたら、「堤中納言」の続きやる」
「いや、4人分だから」
「えええええ、兄様! 最近、忙しすぎるから! もう、全然、時間たりないから!」
「いやいや、忙しくて大変結構、商売繁盛で何よりです」
「そうだけど、それはいいけど、うちは書籍を売る所であって、塾じゃないよね?」
「ん? リンは塾の開催が気に入らない?」
「そういうわけじゃないけど・・・」
不満はただ、好きな書籍を読んだり書いたりする時間が以前より取れなくなったことにつきる。父のアゾフが、使用人を一人連れて、共に出かけている今、
やることが山積みという現実も、理解はしているのだが、どうしたって不平不満が口からでてしまうのだ。
カイトはリンを真っすぐに見て、言葉を繫げた。
「皆の真剣に読み書きを学ぼうという姿勢がさ、私自身にはねかえるんだよ。自分も何かに挑戦しなくてはと思わせられる。読み書きを学ぼうとする皆からね、新しいことに踏み出す勇気を頂いているんだ、だから、大変だけれども、辞めるわけにはいかない」
「とか何とか言って、読み書きできる人が増えたら、書籍が売れるという魂胆ですよね、兄様!」
「・・・もちろん、それはある。世界中の人が皆、読み書きできるようになったら、どれだけ書が売れることか。だから、もっともっと講義の頻度を増やしたいとは思っています」
「うわぁ・・・」
「文字屋」は書籍を売る店であり、塾ではないとの思いが、少なからずリンにはあるのに。
「兄様、商売熱心だなぁ」
カイトはちょっとおどけてみせた。
「もちろんです。父様の留守に売上を下げるわけにはいきません。戻られて、
売上を見てびっくりしていただかなくては! 今日もこれから、しっかり売りさばいてくるつもりだし、できたら、新作の注文も取ってくるつもり!」
ちょっとふざけて、右腕でこぶしを作って見せる。このようなおちゃらけた姿は妹の前でしか見せたりしない。
「うわぁ…兄様、商魂たくまし」
仕事に張り切る兄を誇りに思うものの、自身は有無を言わさず巻き込まれており、読みたい本、書きたい本への時間が割けないリンは少し呆れ気味なのであった。
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