文字屋

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都市国家「コリントス」の神殿前を通り抜ける大通り沿いには、旅の宿、食事処が連なっている。また、コメ、野菜、肉、乾物、お菓子に塩など食の専門店も立ち並ぶ。仕事着、衣服、布、着物、履物を扱う店に家具、道具、他、衣食住に必要なお店、武具などの専門店、煙草屋に両替商など大きな屋敷を構えていた。  『文字屋』は大きな賑わいをみせる通りから、一つ道を入ったところにある。黒光りする木彫りの看板が掲げられ、入口脇には「書・売買、代書、読み書き指導」と小さな板に記されている。 12歳となるリンは朝の陽ざしを浴びながら、店の周囲を掃き清めた後、出入口の引き戸を綺麗にふきあげている。 「ご苦労様」 その声に、リンは振り返る。 「兄様、お帰り」 朝の武道の鍛錬から戻ったカイトが軽く、リンの赤茶色の髪の頭をなでる。 「ありがとう、今日も綺麗になってる」 「ん? わたし?」 屈託のない笑顔でカイトに微笑む。 リンが誕生した時、カイトは9歳だった。 母は、リンを生んだ半年後に亡くなる。6歳で養子として迎えられたカイトに、3年間、文字の読み書きを含め、この店、この街での生活の全てを教えてくれた優しい母。 葬儀の際に、兄として妹が立派に15歳の成人を迎えることができるよう全力で、妹を守ることを誓っていた。 「はいはい、ご飯にしょう。今朝は頑張ったから、お腹がへった」 戸を開け、店内に入る兄に続いたリンの目にカイトの首筋の下、赤く腫れあがっているのが目に入る。 「兄様、強くなった?」 「う~ん、以前よりはましになった」 「そっかぁ、姫を守る騎士は強くなくては駄目だよね?」 「そうだねえ・・・まぁ、私は騎士ではなくて、書士だから」 「だよね、では、どうして強くなりたいの?」 「え?」 「兄様は書士でしょう? どうして強くなろうとするの?」  もちろん、目的はあった。トロイに話した通りである。これを、妹に話してよいものか、一端、躊躇したのであるが、嘘をつくことでもない。なぜ? なぜ? と問い詰められることも覚悟した。 「・・・私も、できたら数年後にね、父様のように各国を旅してみたいと思ってる。だから、自分自身の身を守るためにね、今、習っているわけ」  リンの問いに答えながら、今日も幾度となく投げられて、へこんでしまったことを恥ずかしく思った。強さを身につけなければいけない理由があるというのに。 「父様は自分は強くないって言ってたけど。強いのはキュレイだって。キュレイに守ってもらってるって」 「うん、キュレイさんは強いね、でも父様も強いよ。私も、キュレイさんまではいかなくとも、父様ぐらいには強くなりたい」  二人の会話に登場したキュレイは「文字屋」の番頭であり、今、二人の父である主のアゾフと共に旅に出ていた。元兵士の経歴で、30歳にて「文字屋」に入り、すでに15年ほど勤めている。 「そっかぁ、兄様も旅をしたいのかぁ。意外ー」 「そう? 意外かな?」 「意外だよ。だって父様は普段から、じっとしてられなくて、街中を駆け回ってるじゃない? 兄様は書くのが好きで、それを買って喜んでくれるお客の姿を見るのが大好きって感じだから、意外~」 それでもリンは謎がとけたという、スッキリした表情をしてみせた。 カイトが言葉を繫げる。 「読むのも、書くのも、売るのも大好きだよ。でも、ずっと行ってみたい所があるんだ」 「ふーん、どこ?」 「・・・アクロポリス」 「ふーん、西の大国かぁ」 リンのアクロポリスの知識はそれだけだった。遠すぎて、見知った人は誰も訪れたことがない。何も浮かばなかったのだ。 「若旦那、リンちゃ~ん!」 奥の台所から、家事仕事を取り仕切ってくれているネメの声。 「ご飯、支度できてますよ~。いただきますよ~」 「は~い!」 二人とも、食卓へと急いだ。                 *  12年前に母が亡くなってから、炊事・家事仕事に雇われているネメは二人にとって母のような存在でもある。 50を過ぎたネメにとっても、それは同様で、夫を早くに亡くし、一人娘が嫁いたことにより、3年ほど前から、同屋敷にて皆と寝食を共にしていた。 今朝もご飯を炊き上げ、汁物と干物を焼いたものと野菜の煮つけを並べてくれる。 「ご予定では、旦那様のお帰りは今月いっぱいでしたよね?」 ネメがカイトに確認した。すでに25日であり、残り1週もない。 「予定は未定の方だから、どうだろう?」 「キュレイさんがついてますから、そこは問題ないのでは?」 「う~ん、まぁ確かに。キュレイさんが一緒なわけで・・」 そう言いながらも不安な二人。時間に関して、主への信頼度はかなり低い様子。 「父様、いっぱい買いつけてくるかな?」 「山ほど買ってくるんじゃないかな。忙しくなるよー。書いても書いても終わらなくなる」 リンはうんざりした顔をした。 「えー。今だって、中途半端なモノ、いっぱいあるよ。無理、もう無理、本当に無理。兄様、わたし、もう手が痛いー」 兄の前に右手を広げて、指にできた、たこを示した。 「そうよねー。リンちゃんはお仕事ばかりではなく、お嫁に行く時に困らないよう、いろいろ身に付けておくことあるのにねー」 「ねー!」 ネメは常にリンの味方である。多くの時間を仕事に割いていることに対して、いかがなものかと思っているのだ。 スタスタスタと軽快な足取りで通りを走る男が、「文字屋」の前で足を止める。紙片を取り出して看板と見比べた。 「朝っぱらからごめんなさいよー」 出入り口から聞こえてくる声に、食事を済ませお湯をのんでいた3人が耳をすませた。 「はいはいはい」 ネメは立ち上がり、草履を履いて、出入り口へと向かう。 「どちら様?」 戸を開けて、応対している。書簡や手紙を運ぶ飛脚のようである。 「ご苦労様」と答えるネメの声に、二人は顔を見合わせ、そわそわした。 「父様からだと思う?」 「どうだろう?」 ネメが足早に戻ってきて、カイトに受け取った書簡を手渡す。微笑んでいた。 「ご覧ください」 カイトは棒状の筒をあけて、手紙を取り出す。 リンが身を乗り出してくる。 「父様からだ。月末の日に、戻られるって!」 「わーい! やった!!」 リンがネメに飛びついて喜んでいる。 カイトは肩の荷が下りる気がした。半年もの間、父のアゾフと番頭のキュレイの二人が留守にすることは初めてだった。 一か月、二か月、三か月と留守を守る日が長くなり、今回、半年を無事に守ることができた。 「よかった・・」 カイトの心の底から発せられたつぶやきだった。
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