花なし花見の始め方

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 花も葉もない木々の周囲を、数え切れないほど大勢の人々が埋め尽くしている。  小木野は人垣の隙間をかいくぐり、一際立派な枝ぶりをした桜の幹にそっと指を触れた。つやつやとした紙の感触がそこにはあった。 「もしかしなかったかあ」  ノートに描いた空想の再現図から指を離して、小木野はローテーブルに突っ伏した。脱力した体勢のまま、視線だけを窓際に向ける。桜の下に陣取っていた時より少々暗くなった空から、茜色の光がアパートの室内へと差し込んでいた。 「数人集まっただけでも上出来でしょ」  テーブルの向こうに座る新橋が言った。グラスに入った赤紫の液体をがぶりと喉へ流し込み、「くああ」と断末魔じみた甲高い声を上げる。  新橋の傍らには、優美な形をしたガラス瓶が置かれていた。小木野が住む部屋のすぐ隣、新橋の自宅から持ち込まれたワインボトルだった。瀟洒なデザインのラベルには高級そうな格調が漂っているが、無造作な飲みっぷりと奇声によって、少々台無しの感がないではなかった。 「まあ、結局二人に戻ったけど」 「儚い希望だったねえ」  三人の若者が花見に加わった時、成功への期待が小木野の心中で膨れ上がったが、以後はしぼむ一方だった。  若者たちはしばらく雑談に興じていたが、映画館へ向かう途中だったらしく、やがて「どもでしたー」「時間やばいかも」「走れ走れ」「メロス?」「セリヌンティウス」「あっははは!」と慌ただしく去っていった。それ以降、声をかけてくる人々は時折現れたものの、せいぜい多少の会話が生じる程度で、長居して花見につき合う者はいなかった。  小木野はひうひうとかすれた口笛を吹きながら、テーブルに置かれた菓子の袋へ手を伸ばした。いくつも並んだ菓子類は、花見の予備としてリュックサックに入れていたものの余りだった。ふらふらと指先を迷わせた後、小木野はコアラのキャラクターが描かれたビスケットを掴み、口元に運ぶでもなくぼうっと見つめた。つぶらな瞳をした有袋類が、哀れな人類を慈しむように柔らかく微笑んでいた。 「私としては悪くない顛末だけどね」  グラスを指で弾きながら新橋が言った。 「あなたの奇行には辟易してるし。たまには懲りてもらわないと」  新橋は大袈裟な身振りで肩をすくめ、チーズスナックの袋に手を突っ込んだ。穴の開いたチーズを模した菓子をどっさりと引っ掴み、大口を開けて丸ごと食らう。  中身が詰まり始めた頬を眺めて、小木野は使い古しの雑巾のようだった表情を綻ばせた。  小木野が思いつきのままに行動するのは、今日に始まったことではなかった。少し前には、アザラシの顔真似をしながらオットセイの声真似をする練習をしたり、辻百人一首と称して道行く人々と坊主めくりで勝負したりもした。  そういう場面に遭遇した時、新橋は呆れたような態度を取りつつ、積極的に参加してくるのが常だった。毎度甚だしい言行不一致が、小木野にとっては嬉しくもあり、愉快でもある。  テーブルからのろのろと身を起こして、小木野はノートに描かれた風景に目を向けた。  曖昧な輪郭だけの人物が大勢いる中で、背の高い桜の下に一人、それなりに細かく描き込まれた人物が座っている。退屈そうに冷めた目つきをしているが、頬はハムスターのように丸々と膨らみ、両手にはサンドイッチを握りしめている。絵の大部分は未だ空想の向こう側だが、この箇所だけは概ね現実と一致していた。  少なくとも一人、突飛な行動につき合ってくれる人がいた。  それを確認できただけでも、今日の成果としては十分かもしれない、と小木野は思い始めていた。  掴んだままだったコアラ柄の菓子を口内へ放り込み、小木野は「いつもありがとうね」と微笑んだ。といっても、ビスケットの咀嚼を同時に進行させた結果、どちらかというと「出雲大社詣で」に近い発音になっていた。 「えっ、何て言った?」  手元で透明の個包装を開けながら、新橋は戸惑ったように眉をひそめた。 「もっとはっきり喋ってよ」  既にチーズ菓子でぷくぷくの頬にマドレーヌを押し込みつつ、透明に澄んだ水面を思わせる流麗な声音で、新橋は朗々と言った。  小木野は感謝の言葉を繰り返そうと試みたが、再び咲き始めた笑いの花々に阻害され、どうにも上手くいきそうになかった。
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