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頭上に広がる桜の枝を眺めながら、小木野が手元の紙コップに唇をつけると、砂糖たっぷりのホイップクリームを思わせる濃い甘味が口内へ流れ込んだ。
コップの中身を一息に飲み干し、小木野は「ふほう」と気の抜けた声を漏らした。レジャーシートに置いた1.5リットルサイズのペットボトルを開けて、こぽこぽとコップに液体を注ぎ足す。
「小木野さん? 何してるの?」
蓋を閉めて二杯目に移ろうとしたところで、背後から訝しむような声がかかった。
小木野は頬の筋肉をへんにょりと緩め、コップ片手に振り向いた。同じアパートに住む知人の姿を視認して、「こんにちは、新橋さん」と空いた方の手を小さく挙げる。
新橋は奇妙な生物を観察するような目つきで、地面に座り込んだ小木野を見下ろしていた。手に持った布製の買い物袋から、槍のように細長いサラミのパッケージが突き出ている。
「花見だよ。見ての通り」
小木野は腰掛けたレジャーシートを撫でて言った。
花崗岩を模した柄のシートの上には、熊のようにずんぐりとしたリュックサック、薄茶色の液体が入ったペットボトル、サンドイッチを詰めすぎて具が飛び出しかけている弁当箱、そして締まりのない顔つきをした人間が一人乗っている。
シートが敷かれた地面の傍には、立派な枝ぶりをした背の高いソメイヨシノが立っている。公園の一角にあるその桜は、周囲の木々と比べても一際目を引く威容を見せていた。
「ここの桜は確かに綺麗だけど」
「そうだよねえ」
緩んだ表情のまま小木野が頷くと、新橋は餅が歯に貼りついたような顔をした。
「時期ってものがあるでしょう」
新橋は桜の枝を見上げながら、腕を組み体を小さく震わせた。
小木野は頭上に視線を向けた。灰色がかった樹皮の周りには一片の花も葉もなく、小さな楕円の芽だけがあちこちに生えている。時期が来ればそれらは麗しい花々を開かせるだろうが、今のところは吹きつける寒風に枝ごとふらふら揺れるばかりだった。
「春になると混むからね。今なら場所も選び放題」
「いい場所取っても意味ないじゃない。見る花がないんだから」
「それはそうなんだけど、ちょっと考えがあって……」
曖昧に語尾を切って、小木野はコップを口元でぐいと傾けた。甘味を喉に送り込みながら、レジャーシートを空いた手で軽く叩く。
「新橋さんも一杯やろうよ。サンドイッチもあるよ」
「こうも寒いのに、外で飲み食いなんてどうかしてる」
揶揄するような口ぶりと反して、新橋は澱みない動作で小木野の隣に腰を下ろした。
小木野はにっと笑みを深めて、リュックサックから紙コップの束を取り出した。数個重なった塊から上の一つを取り、シートの上に自分のコップと並べて置く。二つの器に液体を注ぐと、ペットボトルの中身は残り半分ほどになった。
「このミルクティー、ほんと好きね」
ペットボトルのラベルを横目で見ながら新橋は言った。
「妙な味付けだと思うけど。紅茶っていうより、甘すぎる菓子を食べた気分になる」
「そうだねえ。でも、お茶にお菓子はつきものだからね」
通るような通らないような怪しげな理屈を述べて、小木野はコップの一方を新橋に差し出した。
「ありがとう」
新橋は受け取ったコップにすぐ口をつけ、「ケーキバイキングをミキサーにかけた味」と渋面を作った。
ふふと小さな笑い声を上げながら、小木野はいっぱいに中身の詰まった弁当箱を手の平で示した。
「サンドイッチも好きに食べてね。ハムとタマゴとオイルサーディンがあるよ」
「それより説明が欲しいんだけど」
新橋は矢のように鋭い調子で言って、オイルサーディンサンドを渋滞気味の弁当箱から引っこ抜いた。大きく顎を開いてパンと具の大部分を噛み取り、リスのように頬を膨らませながらもごもごと咀嚼する。
「どうしてこんな時期外れの花見をしてるの?」
口いっぱいに食物を詰めているにも関わらず、器用なことに新橋は普段通りの、というより普段以上に明瞭に響く凛々しい声を発した。
無造作な食事姿との落差が、小木野の琴線をかき鳴らした。
小木野は喉へと向かったミルクティーが帰ってくる感覚を味わった。むせながら腹を押さえて、ふっふへっへと荒い息を吐く。ほとんど意識しないうちに、レジャーシートに投げ出した脚を8ビートのリズムで叩いていた。
「ちょっと、笑ってないで質問に答えてよ」
サンドイッチの残りをぎゅうぎゅうの頬へ追加しながら、きりりとした精悍な声音で新橋は言った。繰り返される落差が引き金となり、小木野の胸中で可笑しさのつぼみが一斉に開花した。
しばしの間小木野は、哄笑の狂い咲きに身を任せるほかなかった。新橋は初めこそ不審げな目つきで睨んでいたが、段々と心配の感情を露わにし、うひへひと珍妙な声を上げて震える背中を優しくさすってくれた。
「ふう、へえ」
呼吸を整えながら、小木野はコップが空になるまでミルクティーを口内に流し込んだ。
「まったく、何がそんなに面白いんだか」
新橋は呆れたように首を小さく振った。頬は元通りにしぼみ、オイルサーディンサンドの名残は既にない。
だってあれは面白かったよ、と小木野は反駁しかけたが、蒸し返すと笑いの花も返り咲く危険を感じ、「花見のことだけどね」と話題を戻した。
「けっこうちゃんとした理由があるんだよ」
小木野は目元に力を込めて、口角をスイと引き上げた。知的な微笑を作ったつもりだったが、新橋は「アザラシの顔真似?」と不思議がるばかりだった。
誤魔化すように咳払いをして、小木野は「ネットの動画で見たんだけど」と切り出した。
「広場で独り踊ってる人がいてね。周りにいる人は初め無関心だったけど、そのうち一緒に踊る人が出てきた。そうしたら、また一人、二人って乗っかる人がどんどん増えていって、最後には大人数でのダンスになったんだ」
小木野はすらすらと言葉を継いだ。新橋は「何の話?」とでも言いたげな顔つきで聞いている。
「つまり一見突飛な行動も、ついていく人がいたら、やがて大勢に広がっていく」
「まあ、状況によってはそういうことも……」
不意に言葉を切って、新橋は「げっ」と驚いたカエルのように呻いた。
「まさか、この馬鹿げた花見を広めようって魂胆?」
「そうなったら面白いよね」
にまにまと頬を綻ばせて小木野は頷いた。
「思いついてからずっと、試してみたいと思ってたんだ」
件の映像を目にした後、ふと小木野の脳裏に空想が湧いた。花のない桜の下、茶色く褪せた芝生に陣取り、寒風に歯を鳴らしながら独り飲み食いする人物。その元へ一人、二人、やがて公園中を埋め尽くすほど、わさわさと押し寄せる人の波。
頭で膨らむ愉快で不条理な光景に、小木野はにやにやと独笑した。その時電子レンジで温めていたあんまんの存在もしばし忘れ、想像の中の場面を無地のノートに描き写した。カートゥーンめいた筆致の絵が出来上がる頃には、小木野は自らの思いつきをすっかり気に入っていた。あんまんは冷めていた。
「さっそく一人来てくれたし、順調だね」
小木野は期待に輝く瞳を新橋に向けた。新橋はふんと鼻を鳴らし、手元のミルクティーをあおって「紅茶も甘けりゃ考えも甘い」と言った。
「私は顔見知りだからつき合ってるだけよ。通りすがりの他人ならこうはいかない」
手の平を大仰に振りながら新橋が述べた途端、「あのー、すいませーん」と近くから声がかかった。さくさくと芝生を踏む音がいくつか鳴っている。
小木野が足音の方を見ると、中高生くらいの年恰好をした三人の若者が、興味津々といった目つきをして立っていた。
「何してるんですか?」
懐っこい微笑を浮かべて、若者の一人が尋ねた。
「花見ですよ。ご覧の通り」
紙コップを掲げて小木野は言った。若者たちは「花見?」「花ないじゃん」と小さく笑いを交わした。
「皆さんも一緒にいかがですか? ミルクティーとサンドイッチがありますよ」
「いいんですか」
目を丸くして若者が言った。
「どうする?」「寒くない?」「でもウケるでしょこんなん」「確かに」「花ない花見って何見?」「虚空見じゃん?」「それだわ」「それ~」「あっははは!」
矢継ぎ早に言葉を交わしていく若者たちを、小木野はにこにこと、新橋は憮然と眺めていた。
小木野はリュックサックから折り畳んだレジャーシートを取り出した。自分たちが座っている花崗岩柄のシートと隣合うように、閃緑岩柄のシートを広げて地面に敷く。
人が増えた時のために、リュックサックには予備のシートや紙コップ、飲料や菓子を詰めてあった。とはいえ大人数に対応できるほどの量はないが、足りない分は各自持ち寄ってもらおう、と小木野は能天気に考えていた。
「遠慮しないで、さあどうぞ」
三人分の紙コップを並べながら小木野は言った。
若者たちは一瞬視線を交差させ、「お邪魔しまーす」と快活に言ってシートに腰を下ろした。小木野が注いだミルクティーを勢いよく飲み、「うわ、何これ」「甘っ!」「割と好きかも」と軽やかに笑っている。
ひっそりと物寂しかった公園の片隅に、活気が加わり始めていた。小木野は「賑やかになってきたね」と声を弾ませ、新橋の二の腕を人差し指でつついた。
「まさか……もしかして、もしかする?」
見開いた目を若者たちに向け、新橋はぼそぼそと呟いた。戸惑ったように張り詰めた表情のまま、身じろぎもせずぴたりと静止している。手だけは滑らかな動作でサンドイッチへと伸びていた。
「もしかするよ」
期待に満ちた調子で宣言し、小木野は紙コップを高らかに掲げた。その姿はさながら、そびえ立つ自由の女神像のようでもあり、酒宴にはしゃぐ酔っぱらいのようでもあった。
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