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愛してる
日々を繰り返し、夢や希望を描いても日常に流されてゆく。
夜に勇気が湧いても、眠り、朝になればその勇気はどこかに消えてしまう。
喜びも恐怖も増減を繰り返し、私は彼への想いだけを持続させる。
初めて彼を見つけた日。
私の青春が本格的に始まった。
言葉にするのが難しい感情を知った。
遠くから見つめるだけだった彼を、私はどうしてこんなに愛してしまったのだろう。
彼の歌声や奏でる音、笑顔に、光るピアス。
再会し、近づいても、想いは強くなるだけだった。
「好き」と伝えた自分が誇らしかった。
そして、切なかった。
特別な日でも何でもないある日。
ただ、転機を求めてしまったのかもしれない。
彼の気持ちを知りたくても知れない虚しさや、私の知らない彼の過去、それに連休というのも重なり、飲みすぎて酔っ払ってしまった夜。
私は彼に聞いてしまう。
「バンドの事、よく思い出す?」
聞きたくないフリして、知りたくてたまらなかった事。
本当は酔っ払ってなんかいなかったのかもしれない。
この質問をするタイミングをずっと見計らってきたように思う。
私は彼を過去に近づけさせようと仕向けた。
でも彼は、特に表情を変えずに答えた。
「寝る前とか、たまに」
これまで、彼の表情を沢山見てきた。
でも、この表情は初めてだった。
なんとも言えない表情。
さっきの発言が嘘だとバレバレな表情。
彼は自分が嘘を隠せていない事に気付いているだろう。
それでも嘘をつく彼。
「3回目っていうのは、奇跡みたいに現れてくれた回数だよ」
私はいきなり、違う話をした。
「前に言ってた3回目の話?奇跡みたいに現れた?」
彼はそんな私の話を真剣に聞こうとしてくれる。
違う話になった事は、彼にとって好都合のはずだ。
「私を救ってくれた曲を聴いている最中に、その曲を作った人が奇跡みたいに私の前に現れた回数」
彼は戸惑う。
自分の過去に関わる話だったから。
何を言おうか迷っている。
私が仕向けた事なのに、何か決定的な事を言われる予感がして怖くなった私は、
「私、一緒に暮らせて、嬉しいよ。楽しいし」
と、もうさっきの会話には戻れないようにする。
私も彼も、結局は傷付くのが怖くて、相手を傷付けるのも怖くて、本音を隠す。
「酔っ払ってるね」
彼はいつものトーンで、ただそれだけ言った。
そして少しだけ微笑んだ。
彼女が亡くなった時、大切な事は言葉にすべきだと分かったつもりだったのに。
それなのに今でも私は、彼へ想いを伝えられずにいる。
私の人生で、彼の存在が、彼の笑顔が、彼の音楽が、彼の声が、彼の優しさがどれだけ私を救ったか。
そして、彼の本当をどれほど知りたがっているか。
愛してる。
私がずっと抱えて生きてきたのは、彼への愛だった。
彼に出会い、彼に会えない間も、彼と再会してからも、私は彼への愛があったから生きたかった。
側にいられるならそれで良かった。
なのに、彼が切ない顔をするから。
隠しながらも辛い顔をするから。
私は、音楽をする彼の側にいたい、という夢を描いた日を思い出してしまう。
音楽を諦めた彼の側にいる私。
夢が叶わなかった彼の側に、夢が半分叶った私がいる。
そのことがどうしても心につっかえて痛いのだ。
「バンドの事、よく思い出す?」
そう聞いた時、彼が嘘をつかずに
「毎日、辛いほど思い出すよ」
本当のことを言ってくれていたなら。
私は彼に伝えたと思う。
「愛してる」
その一言が私の全てだったから。
その一言を言えたのなら、私は後悔なく彼の元を去っただろう。
彼は囚われるものなく、私の存在を気にせず、もう一度夢を叶えるために努力をするなり、新たな夢を探すなり、どうにか前に進もうと決心できたはずだ。
彼にとってのハッピーエンドに向かって。
私の知らない彼の怒と哀の理由。
自分を責め、未来を哀しく見つめた理由。
私に知る権利はない。
彼が私に伝える義務もない。
そして私には、彼を嫌いになれる理由もない。
彼の過去を弱点のように捉え、全盛期ではない彼に安心していた。
どんなに頭で色々考えても、私は結局、今でも彼の側にいる。
私にとっては、ハッピーエンドなのかもしれない。
彼の側で半分だけ夢を叶え、その事に後ろめたさを感じながらも、彼の隣で彼の笑顔を見ている。
私の全てである、愛してるの言葉を伝えずに。
彼が遠くに行かないように。
彼を誰にも知られたくない。
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