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彼が過去に近づく時
二人で映画を観た帰りだった。
クリスマスが近かったから、いつもよりカップルが多くて、街の雰囲気も普段とは違った。
「先輩」
こっちを見て近づいてくる人を見つけた。
私を先輩と呼ぶ人は一人しかいない。
まだ同じバイト先で働いている。
「先輩、どうも。ちょうど連絡しようと思ってて。あ、はじめまして。バイト先が一緒でいつもお世話になってます」
後輩は私の隣にいる彼に、自己紹介した。
彼は
「はじめまして」
とだけ言い、私に小さな声で
「この先のコンビニ行ってくるから話してて」
と耳うちしてきた。
彼は後輩に軽くお辞儀をし、コンビニに向かった。
「先輩、彼氏ですか?」
後輩の無邪気な質問に私はなぜか苛立ってしまう。
「私の事はいいから。連絡って、何かあった?」
「あ、シフト希望、先輩まだ出てなくて、今月早めに作りたいから希望ないならもう作るって店長が・・・」
隠したつもりの私の苛立ちが伝わってしまったのか、雰囲気が少しだけ重くなるのが分かった。
私は自分が恥ずかしくなる。
「特にないから、作っていいですって伝えといてもらえる?私、明日から連休だから」
「はい。伝えときます。じゃあ、失礼します!」
「わざわざありがとう。またね」
「はい!」
後輩は来た道を戻り、待っていた男女グループの中に加わった。
コンビニまで歩く。
なぜか足取りが重かった。
自分の苛立ちの感情を見せた最初の人が、彼ではない事が悲しい。
コンビニの前で彼は私を待っていた。
私の好きな笑顔で。
「ごめんね、お待たせ」
「炭酸買っといたよ」
「ありがとう」
お互い、後輩について言う事も聞く事もしなかった。
私は今まで彼に自分の知り合いの話をしたり、バイト先について詳しく話した事がない。
彼も同じで、私は彼の友達を一人も知らない。
私は彼以外の人と深く関わっていなかったから、話す事がないというのが事実なだけで、なんとも思っていなかったけれど、この日強く感じた。
私について伝えていない事が多すぎると。
そして、彼について知らない事が多すぎると。
このままで本当に良いのだろうか、と。
後輩に「彼氏ですか?」と聞かれた時に感じた苛立ちは、私が彼にとってどういう存在かを証明しなければならない危機感を覚えたから。
それと、彼が私について知る事を避けている気がしたから。
重要なもう一つは、大切な彼を他の誰にも知られたくなかったから。
何かが変わるのが怖かった。
私にはステージ上の眩しい彼も今の彼もどちらも平等に大切なはずなのに、私の隣で優しく笑ってくれる今の彼の比重が日々大きくなる。
時間が経ったのだから、それは当たり前の事だと思っていたのに、彼にとっては当たり前じゃない。
彼には過去の比重が大きすぎる。
一緒に暮らしていれば分かる。
彼にも過去より今を生きてほしいと私は願ってしまう。
次の日。
彼はテレビを観ている私に突然言った。
「一番最後の曲から聴いて。気持ちが変わっちゃうから、他の曲は聴かないで、最後の曲から」
「何の話?」
彼の口から「曲」という、音楽に関わる単語が出た事自体に気付く間もなく、彼はテーブルの上に一枚のCDを置いて、
「行ってきます」
と、いつもと変わりない様子で部屋を出た。
私は、彼がさっき言った言葉をもう一度頭の中で繰り返してみて、驚く。
彼が音楽の話をした。
CDを見ると、それは彼がいたバンドのものだった。
彼がいなくなってからのバンド。
急いでドアを開け、彼を追いかけようとしたけれど、彼の姿はもう見えなかった。
不安を感じた。
部屋に戻り、言われた通り最後の曲を聴く。
歌とアコースティックギターだけのシンプルな編成。
その曲で歌われていたのは、間違いなく彼女の事だった。
歌詞カードを見ると、その曲を作ったのはやはり彼女の愛したその人で、二人が楽しそうにカラオケで歌っていた姿や、彼女が亡くなり憔悴しきっていた姿が思い浮かぶ。
帰ってこないのではないかと不安になっていたけれど、彼は普段通りに帰ってきた。
私は彼を抱きしめた。
私の頭を撫で、彼は言う。
「音楽聴くの、俺のせいで避けてたから。この曲だけは絶対に聴くべきだと思って」
「教えてくれて、ありがとう」
それ以上は何も言えなかったし、聞けなかった。
彼はバンドの曲を常に、チェックしていたのだろうか。
それとも偶然、コンビニかどこかで聴いて知ったのだろうか。
いずれにしても彼は今、過去を思い出している。
夢を追っていた輝かしい時代を振り返っている。
彼が過去の彼に近づいていく。
私をまだ知らない頃の、過去の彼に。
デビューが決まった頃の、過去の彼に。
私は何を求めているのだろう。
彼と過ごす為に生きている、それで良いのだろうか。
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