愛してる

1/1
前へ
/11ページ
次へ

愛してる

 日々を繰り返し、夢や希望を描いても日常に流されてゆく。 夜に勇気が湧いても、眠り、朝になればその勇気はどこかに消えてしまう。 喜びも恐怖も増減を繰り返し、私は彼への想いだけを持続させる。  初めて彼を見つけた日。 私の青春が本格的に始まった。 言葉にするのが難しい感情を知った。 遠くから見つめるだけだった彼を、私はどうしてこんなに愛してしまったのだろう。 彼の歌声や奏でる音、笑顔に、光るピアス。 再会し、近づいても、想いは強くなるだけだった。 「好き」と伝えた自分が誇らしかった。 そして、切なかった。  特別な日でも何でもないある日。 ただ、転機を求めてしまったのかもしれない。 彼の気持ちを知りたくても知れない虚しさや、私の知らない彼の過去、それに連休というのも重なり、飲みすぎて酔っ払ってしまった夜。 私は彼に聞いてしまう。 「バンドの事、よく思い出す?」 聞きたくないフリして、知りたくてたまらなかった事。 本当は酔っ払ってなんかいなかったのかもしれない。 この質問をするタイミングをずっと見計らってきたように思う。 私は彼を過去に近づけさせようと仕向けた。  でも彼は、特に表情を変えずに答えた。 「寝る前とか、たまに」  これまで、彼の表情を沢山見てきた。 でも、この表情は初めてだった。 なんとも言えない表情。 さっきの発言が嘘だとバレバレな表情。 彼は自分が嘘を隠せていない事に気付いているだろう。 それでも嘘をつく彼。 「3回目っていうのは、奇跡みたいに現れてくれた回数だよ」 私はいきなり、違う話をした。 「前に言ってた3回目の話?奇跡みたいに現れた?」 彼はそんな私の話を真剣に聞こうとしてくれる。 違う話になった事は、彼にとって好都合のはずだ。 「私を救ってくれた曲を聴いている最中に、その曲を作った人が奇跡みたいに私の前に現れた回数」 彼は戸惑う。 自分の過去に関わる話だったから。 何を言おうか迷っている。 私が仕向けた事なのに、何か決定的な事を言われる予感がして怖くなった私は、 「私、一緒に暮らせて、嬉しいよ。楽しいし」 と、もうさっきの会話には戻れないようにする。 私も彼も、結局は傷付くのが怖くて、相手を傷付けるのも怖くて、本音を隠す。 「酔っ払ってるね」 彼はいつものトーンで、ただそれだけ言った。 そして少しだけ微笑んだ。  彼女が亡くなった時、大切な事は言葉にすべきだと分かったつもりだったのに。 それなのに今でも私は、彼へ想いを伝えられずにいる。 私の人生で、彼の存在が、彼の笑顔が、彼の音楽が、彼の声が、彼の優しさがどれだけ私を救ったか。 そして、彼の本当をどれほど知りたがっているか。  愛してる。 私がずっと抱えて生きてきたのは、彼への愛だった。 彼に出会い、彼に会えない間も、彼と再会してからも、私は彼への愛があったから生きたかった。 側にいられるならそれで良かった。 なのに、彼が切ない顔をするから。 隠しながらも辛い顔をするから。 私は、音楽をする彼の側にいたい、という夢を描いた日を思い出してしまう。 音楽を諦めた彼の側にいる私。 夢が叶わなかった彼の側に、夢が半分叶った私がいる。 そのことがどうしても心につっかえて痛いのだ。 「バンドの事、よく思い出す?」 そう聞いた時、彼が嘘をつかずに 「毎日、辛いほど思い出すよ」 本当のことを言ってくれていたなら。 私は彼に伝えたと思う。 「愛してる」 その一言が私の全てだったから。 その一言を言えたのなら、私は後悔なく彼の元を去っただろう。 彼は囚われるものなく、私の存在を気にせず、もう一度夢を叶えるために努力をするなり、新たな夢を探すなり、どうにか前に進もうと決心できたはずだ。 彼にとってのハッピーエンドに向かって。    私の知らない彼の怒と哀の理由。 自分を責め、未来を哀しく見つめた理由。 私に知る権利はない。 彼が私に伝える義務もない。 そして私には、彼を嫌いになれる理由もない。 彼の過去を弱点のように捉え、全盛期ではない彼に安心していた。  どんなに頭で色々考えても、私は結局、今でも彼の側にいる。 私にとっては、ハッピーエンドなのかもしれない。 彼の側で半分だけ夢を叶え、その事に後ろめたさを感じながらも、彼の隣で彼の笑顔を見ている。 私の全てである、愛してるの言葉を伝えずに。 彼が遠くに行かないように。 彼を誰にも知られたくない。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加