涙を忘れた日

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涙を忘れた日

 暑さが残る夏の終り。 彼をライブで観るだけで、すれ違う事もないまま時は過ぎていた。 カラオケに行ってから、バンドメンバーと会ったりしゃべる事もなかった。  ただ一つ変化があったのは、彼がピアスを付けていた事だ。 前から、他のメンバーはネックレスだったりピアスをしているのに、彼は何もしていないな、と観察していた私。 おそらく耳に穴も開けていない。    彼のピアスに気付いたのは、初めて一人でライブに参戦した日だった。 彼のバンドは少しずつ人気を集めているようで、時々、少し遠い都会のライブハウスにも出ているらしい。 全てのライブに行けるほど余裕はないから、この日は久し振りに彼を見た。 髪を少し切ってさっぱりとした彼の耳に、光るものが付いていたのだ。 バンドメンバーはみんな同い年だと彼女から聞いていたので、私より3つ年上。 彼女からうっすら聞いた話だと、高校卒業後は、全員学校に通っていない。 彼女の彼氏はバイトをしながら、音楽をしているらしかった。  私とは違う世界にいて、私よりも大人で、夢を追っていて、届かない人だと分かっていた。 ただピアスを開けていただけなのに。 それだけで彼をもっと遠い存在に感じ、ピアスというだけでなんだか少し怖かった。  そして、眩しかった。  学校でイケイケのグループがいると感じる気持ちに似ている。 イケイケだからと、人をいじめるとか性格が悪いと決まっているわけではない。 見た目や雰囲気だけで判断してはいけないのも分かる。 でも、そのグループにいるというだけで、それ以外の人を威圧し苦しめる事がある。 その時の感情に似ていた。  幼かった私は、たかがピアスなのに彼から危険な匂いを感じ、そういうものを嫌うくせに、その危険さにさえも魅力を感じてしまった。    初めて観たライブよりも大人に見える彼は、ピアスを輝かせながら、私が大好きな笑顔でステージを楽しんでいた。  その後の彼を否定している訳ではない。 でも確かに。 あの頃が彼の全盛期だった。 眩しくて、騒がしくて、愛しい時代。  そして彼の全盛期、何も望んでいないと思いつつ、私の心の奥では夢が意思表示を始める。 彼女が私に夢を語った日に私が見つけてしまった夢。 音楽をする彼の側にいたい。  私の夢が心の奥から明確に姿を現したのは、秋になり冬に向けて冷たい風が吹き始めた頃だった。 放課後、公園でブランコに座りながら彼女は言った。 「私、引っ越すことになったの」 「え?いつ?」 「来月には引っ越す。実はオーディションに受かったんだ」 彼女にとっては喜ばしい事だったから、私は複雑な気持ちだった。 「おめでとう!正直離れるのは寂しいけど。でも応援する!」 「私も寂しい。高校生になって、今までで一番、すっごく楽しかったから」   彼女のその一言で私は泣きそうになる。    小さい頃から辛い場面に遭遇すると、すぐに涙目になる弱い自分が大嫌いだった。 両親が喧嘩していたり、クラスメイトに酷い事を言われたり、リコーダーのテストで思い切り音を外し、笑われた時。 その度に、目頭が熱くなり、鼻がツーンとなり、視界がボヤけるあの感覚も大嫌いだった。    涙を見られたくないから、私はブランコを勢いよく漕ぎだした。 「急にどうしたの?」 運動音痴な私の、変な動きに笑ってる彼女に、 「凄い女優になって、スケジュールが埋まりまくって、大勢のカメラマンの前で笑顔を振りまけなくなった時。今の私を思い出して、笑って!」 と恥ずかしがりながらも、彼女を笑わせたくて言った。 「ありがとう。面白すぎるから、思い出したらすぐ笑えるよ、きっと」 彼女も勢いよく漕ぎ始めた。 「それにしても寒いねー」 平然を装っていたけれど、彼女も泣きそうだったのが分かった。 「すぐデビュー?」 「そんなわけないでしょ。これからスクールに通いつつ、ドラマとか色んなオーディションを受けるの」 「でもオーディション受かったって言わなかった?」 「事務所のオーディションに受かっただけだよ」 「そうなんだ」 「彼氏も応援してくれてるし、いずれ私の所に引っ越すって」 「バンドでメジャーデビュー?」 「うん。最近かなり頑張ってるし、まだ時間かかるかもだけど、絶対できると思う」 「そっか、この街じゃ夢は叶えられないのかー」 そう。 この街では彼女も彼らも夢を叶えられない。 もっと遠いところへ行ってしまう。 「あ、そうだ。これ」 彼女はCDを私にくれた。  「明日のライブから販売するのを特別に貰ったの。バンドマンの彼女の特典」 「ありがとう!」 「なんか、メンバー全員が一曲ずつ自分で作ったらしいから、それが結構いい感じだよ」 「ベースの人も作ったってことだよね?」 「うん、そうだよ。中に歌詞カードも入ってるから、そこの表記みてみて。あ、ジャケットの絵は私の芸術的な彼氏が書いたんだよー」 今まではボーカルとギターの二人しか曲を書いていなかった。 彼が作った曲を聴けるなんて。  彼女と明るく別れたものの、寂しい気持ちは消えなかった。 今、唯一楽しみなのは、彼の曲を聴くこと。 私は家に帰り、アルバムを聴こうと思ったのに。 ドアを開けた瞬間、両親の喧嘩が聞こえた。 私はとっさにゆっくりとドアを閉める。 目頭が熱くなった。 最近続いてる険悪なムード。  喧嘩は面倒くさいし大変なのに、自分の気持ちを思い切りぶつけるのが凄いと思う。  マイナスの感情が私にも移る。 本音を隠していた方が楽なのに。    彼女の引っ越しへの孤独感、彼もいずれこの街からいなくなるだろうという寂しさ、両親の喧嘩。 それに、秋ならではの切なさ。  私は中古店に行き、CDを入れて、イヤホンで聴けるポータブルCDプレイヤーを買った。 静かな場所で聞きたかったから、さっきまでいた公園に向かう。 寒かったけれど、構わなかった。  歌詞カードを見て、彼の曲が3曲目だと分かると、私は3曲目から聞き始めた。 彼の想い、時間が込められた曲。  初めて知る感情に出会う。  私は、一人で公園に来た時から泣きそうだった。 大嫌いな目頭の熱さや鼻の痛みが襲ってきていたのに、私は彼の曲によって涙を忘れていた。 なだめられ、慰められ、私の心は深い安心感に包まれていく。 全然知らない彼の何か大切なものを知った気になった。 彼に救われた私は、私の夢を認める。 叶わない夢でも良いと思った。 「アルバムは1曲目から最後まで、どういう曲順にするか迷うんだよ。だから3曲目から聴く人がいるのはちょっとびっくり」 私が彼と暮らし始めて少しした頃、この日の事を話した事がある。 どれだけ彼に救われたかを伝えたいがゆえ、音楽の話になってしまったのだ。 すると彼は冗談っぽく、そう言った。 本当に冗談っぽく、何気なく、私の過去の行動を否定した。 私は反発するつもりはなかったけれど、自分を貫いた。 「でも1曲目から聞いて3曲目を聴くのと、最初に3曲目を聞くのじゃ、全く違う想いになるかもしれないよ。それは聴く人の自由じゃない?」 彼は少し不機嫌になった。 「確かに、そうかもね。まあ、俺にはもう関係ないから」 何気ない瞬間ではあったけれど、私にとって大きな出来事だった。 「でも、そんなに悩んで曲順決めてるなんて知らなかったから。あの時はとにかく早く聴いてみたくてそうしただけだけで・・・」 彼は自分が少しキツい言い方をしたのに気付いたようで、 「そんなに楽しみにしてくれてたなら、作った甲斐があったよ。ごめん」 と言い、テレビを見だした。 彼は辛いんだ。 音楽を諦めた事が。 分かっていたつもりだったけれど、その日しっかり分かった。  その頃の彼はまだ怒と哀が滲み出ていて、それを私に感じさせる事はあっても、向ける事はなかったから。 なんとなく不機嫌にバイトから帰ってきた時も、誰かと電話した後に明らかに落ち込んでいて、ご飯を食べなかった時も。 何があったかは言わなくても、どんな時でもいつもの「おやすみ」「おはよう」「いってきます」「いってらっしゃい」「ただいま」「おかえり」を言ってくれた。  私に向けて不機嫌を表したその日の夜、眠る彼は涙を流していた。 だから、音楽の話はしないと決意する。 そして彼はその日以来、私の前で不機嫌になったり、哀しんだりしないようになった。 感情の起伏をなくす努力をしていた。
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