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生きる理由 私が今でも知らない彼の事
難しい事は考えたくないし、面倒臭い事もしたくない。
綺麗なものだけを見ていたいし、嫌な言葉は聞きたいくない。
彼以外とは好きなものを共有したくないし、彼以外と関わりたくないくらいだった。
悩みを打ち明けたりせず、一人で抱える。
私と同様、彼も同じだった。
マイナスな感情を相手に伝えたくなかったし、伝える必要もない。
自分の感情に相手を巻き込まないようにしたい。
二人の会話は明るいものだけにしたい。
自分の全てを見せると、この暮らしが終わる事を知っていたから。
そうやって過ごしてきた。
そんな日々はとても幸せでもあり、とても切ない。
この切なさは私の生きる理由でもある。
彼が本当は何を思っているのか、本当に私を好きなのか。
私は彼に愛を確実に伝えなかった、その後悔ゆえに生きています。
一度、酔っ払った私は彼に聞いてしまった事がある。
「バンドの事、よく思い出す?」
特に表情を変えずに彼は答えた。
「寝る前とか、たまに」
もしこの時、嘘をつかずに答えてくれていたなら。
ある意味ではハッピーエンドになっていたかもしれない。
私には彼の言葉が嘘だと分かった。
彼がテレビを見ているようで見ていない時、並べられた食事に色合いがなかった時。
きっと彼は、何かを後悔している。
その顔を見て私は私で、叶えられなかった半分の夢を思い出すことがある。
彼と暮らしはじめて3年。
繰り返される日々について考えを巡らす事もなくなっていた。
抜け出したいとも思わない。
変わる事の方が面倒で、疲れる。
「おはよ」
先に起きて朝食を摂っている彼が当たり前のように言う。
この、「おはよ」があるからだろう。
私が繰り返される日常を変えたいなんて思わなくなったのは。
「おはよう」
無理して時間を合わせようとしない二人。
それでも気を遣う事を忘れない二人。
近寄り過ぎると傷付くと分かっている。
本音を求め過ぎると痛い思いをする。
「あ、この人なんか久しぶりじゃない?」
テレビの芸能ニュースに出てきた俳優の事を言っているらしい。
私は具体的な作品が浮かんだ訳ではないけれど、久しぶりだとは何故か思わなかった。
でも、
「確かに。舞台に専念してたとか?」
と答えた。
仮に「そう?久しぶりかな?」と答えたところで、じゃあ何で見たかと聞かれると答えがないから。
「ありえるね。演技がうまいとやっぱり舞台をやりたくなるんだろうね~」
と食パンを両手で持ち、頷く彼は可愛かった。
「今日多分遅くなるから」
私は意外と時間がない事に気付き、バタバタと準備を始めながら伝えた。
「分かった。俺も遅いから。っていうか今日もバタバタだね」
「今日もって?私、昨日もバタバタだった?」
「ふふっ。まあね」
彼は感情の起伏が激しくない。
朝だからテンションが低いとか、仕事から帰ると何かに怒っているとかそういうのがない。
人の悪口も言わない。
そういう所が好きだった。
一緒に生きていく上で私にとても合う。
それでも付き合い始めた頃の、彼の喜怒哀楽を少しだけ知っている。
「いってきまーす」
私は朝食もそこそこに家を出た。
「いってらっしゃい」
初めて彼に「いってらっしゃい」と言ってもらった日。
あれから3年が経つ。
あの頃の彼からは、哀しみとほんの少しの怒りが滲み出ていた。
自分を責め、未来を哀しく見つめていた。
少なくとも私がファンになって恋をした、喜びに溢れた彼ではなかった。
そして、私は彼の怒と哀の理由を今でも知らない。
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