私達

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私達

「伊之助!早く早く!」 トイレに行った伊之助に和美さんは叫ぶ。 「和美さん、このアパート壁薄いの覚えてます?声、大きいですよ」 「今日は特別な日だから!この瞬間は逃せないでしょ?伊之助ー!早く!」 「今行く!」 伊之助の弾んだ声が聞こえてくる。   私と和美さんは、私の部屋のリビングで、お酒におつまみ、お菓子などを用意して21時になるのを待っていた。 「間に合った?」 笑顔の伊之助が私の隣に戻ってくる。 「お腹大丈夫?」 「うん。大丈夫だよ。あ、にな絵。大和まだかな?」 「歌までには間に合いそうだよ」  私達は呼び捨てで名前を呼び合い、タメ口で話す仲になっていた。 そして、今日は私達の曲「憎めない嘘」がドラマの挿入歌として流れる日だ。 ドラマの初回放送なので、私と伊之助と和美さんと大和さんで集まる。 大和さんは水族館の仕事を終えて、こちらに向かっている途中だ。 「仲良いね~」 和美さんがニヤニヤしながらこっちを見る。 「それほどでも~」 伊之助がニヤニヤして言い返す。 「あ!もう始まる!」 ドラマのオープニング映像は、主演の今大人気のイケメン俳優と、ヒロインの演技派女優二人が歩いていたり、走っていたり、見つめ合ったりする映像だった。 そして、流れている曲はfubeの歌だ。 「なんか面白そうなドラマだね」 和美さんが言う。 確かに、オープニング映像から惹き込まれる。 fubeの曲もアップテンポで格好いい。 恋愛とミステリーの2要素のドラマというのと、出演者を聞いた時から、楽しみにしていた。  ドラマも終盤に差し掛かった頃、主人公の男がヒロインに言う。 「もし、あの景色を自由に操れるなら。どうする?」 ヒロインは遠い景色を見つめてから、もう一度男を見る。 「そんな事を考えるあなたが、幸せになれるような世界にする」 その台詞のあと、私達の『憎めない嘘』が流れ出した。 私はいつのまにか泣いていた。 伊之助も泣いている。 ドラマが素晴らしいのももちろんだけれど、私達の曲が流れているという事に感動していたのだ。  ドラマ挿入歌に選ばれたのはfubeのお陰だった。 あの日のオーディションは不合格に終わり、伊之助と付き合う事になったものの、音楽の方面では落ち込む事が増えていた。 二人共、ネガティブな事は言わないように過ごしていたし、性格的に言わないタイプだった。 暗くなりそうになると、 「タメ口で話す事に集中しよう!」 と伊之助が提案した。  敬語をやめるのは意外と難しくて、だけど、タメ口で話す事が嬉しくて仕方がなかった。 どうしてだろう。 距離が近づくからだろうか。 ただ、呼び捨てで呼び合うだけでも、幸せな気持ちが膨れ上がった。    オーディションから半年くらい経ったある日、伊之助の携帯に知らない番号から電話がかかってきた。 伊之助が話したので、言葉の言い回しなどは分からないけれど、fube本人が 「今度、ドラマの音楽を担当する事になったんですけれど、前にオーディションで聞いた『憎めない嘘』がこのドラマにピッタリだと思って連絡しました。それに、『憎めない嘘』が忘れられないというのも正直な思いです」 と伝えてきたのだった。 夢かと思ったし、信じられなかった。 伊之助に告白された時以来の衝撃だった。  ドラマが終わり、私達は黙って余韻を楽しんでいた。 すると、 「こんばんは~!もう終わっちゃいましたか?」 と、汗を流した大和さんが部屋に入ってきた。 「大和!もう終わったよ!」 和美さんが大和さんの汗を拭いてあげる。 「そんな~!あっお姉さんお邪魔します」 「お久しぶりです。これから2回目を観ようと思ってたところです!録画してるの観ましょう!その後の3回目では完全に会話OKにして、4回目は歌うのもOKにして...5回目は台詞を真似するのもOKにして...」 「お姉さん!最高ですね!早く観ましょう!」 「大和さんのお陰で出来た曲ですから!」 「嘘ついて良かった~!」  私達は何度もドラマを観た。 深夜はテレビの音量をほぼ0にしていたけれど、もう何を言っているか分かる程だった。 「にな絵」 少しずつ明るくなりだした頃、伊之助が小さな声で私を呼ぶ。 和美さんと大和さんはいつの間にか眠っていた。 「何?」 「僕を教えてくれてありがとう」 「ん?どういう意味?」 「僕を天才って言ってくれてありがとう。実際は天才じゃないけど...僕自身を教えてくれて、僕に素敵な日々をくれてありがとう」 「私はただ、伊之助さんの歌声と、笑顔に助けられただけだから...」 「これからも。これからも今みたいな笑顔で過ごしていきたいね」 「うん。私も」 「僕にとっての天才はにな絵だよ。にな絵の笑顔。ありがとう」 伊之助が私を抱きしめた。 私も伊之助の背中に手を回そうとする。    その時、伊之助の携帯が鳴る。 伊之助は私から離れ、電話に出た。 「はい。あ、fubeさん?こんばんは。あっ、おはようございます。はい。もちろん観ました!感動しました。本当にありがとうございます。何回も観て...はい。はい。はい。えっ!」 伊之助の笑顔が眩しいほどに輝く。 可愛い。 その笑顔はズルい。 「はい。本当ですか?ありがとうございます!」 良い予感しかしない。 伊之助の笑顔が私に良い事を知らせている。 私は伊之助の笑顔と私の笑顔、そして二人の夢の為にもっと努力すると心に誓う。 ただ過ごすだけでは得られない気持ちに出会う為、才能という言葉に甘える訳にはいかない。 私達は天才に憧れた、ただの凡人だったのだ。    笑顔の伊之助が電話を切る。 優しい声で話し始める伊之助。 私も笑顔になる。 この瞬間、二人の史上最高の笑顔記録が更新された。
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