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どこに行ったの?
「最終審査は、この曲絶対に歌いたいです」
二次審査を通り、さらに逞しく感じる伊之助さんが言った。
「『憎めない嘘』ですか...大和さんのお陰で出来た曲ですね」
「僕、この曲好きなんです。絶対にこの曲が良いと思います」
私も『憎めない嘘』は大好きな曲だった。
自分で作った曲でもかなりのお気に入りだ。
「そうしましょう。伊之助さんの魅力も伝えられると思います」
「本当にありがとう」
「何がですか?」
「僕に夢を与えてくれて。毎日楽しいです。今まで悩む事から逃げる日々だったけれど、たまには悩むのも良いですね。生きてるって感じで。悩んで悩んで、上手くいったら、いい感じ!です」
「私も伊之助さんのお陰でここまで来れましたから。改めてありがとうございます」
「照れますね。本当ワクワクが止まらないです」
そうして、最終審査で歌う曲は「憎めない嘘」と一次のデモテープにも入れた、二人の共作に決まったのだった。
二人で何度も練習した。
集中力は過去最高のものだった。
飽きる事もなくひたすら歌った。
本番前日の帰り道、伊之助さんがホットの缶コーヒーをくれた。
「今日は、冷たいのじゃない方がいい気がして」
なんだかいつもより、ぎこちない気がした。
「ありがとうございます。いよいよ明日ですね」
「そうですね。今日は眠れなさそうです」
もしかしたら、明日、人生が変わるかもしれない。
私は自分の中で、期待の方が大きいのを分かっていた。
正直、伊之助さんと一緒なら、初めてのオーディションで受かるのでは、と思っていたくらいだ。
でも、オーディションに参加し、多くの人が努力し、あらゆる才能を持っているのだと分かった。
だけど、私を、そして何より伊之助さんをこのままにしておきたくない。
本番当日。
会場へ向かうまでは私も伊之助さんもまだ、リラックスしていた。
とにかくオーディションとは関係のない話ばかりした。
ドラマの話、食べ物の話、アルバイトの話。
でも、会場の中に入り、他の参加者やステージを見たら、一気に緊張してしまった。
体が震えるのが分かる。
隣にいる伊之助さんを見ると、多少緊張の面持ちだったけれど、笑顔に余裕があって、私は少しだけ落ち着く。
私達の出番は7番目だった。
7番目だと分かった時は、ラッキーだと思ったけれど、今は6組を待つ自信がない。
緊張は高まる一方で、今出来れば楽なのに、と思った。
刻一刻と出番が近づく。
3番目の演奏途中、伊之助さんは
「ちょっとトイレ行ってきます」
と言い、私の側を離れた。
伊之助さんがいなくなると、私の鼓動は速まった。
手も震えだしてしまう。
これが、本当の緊張だと思い知った。
伊之助さんの笑顔を見れたら楽になるのに…
早く戻ってきて。
それなのに伊之助さんはなかなか戻ってこない。
私は少しずつ不安になる。
まだだろうか。
心配になり、トイレの方に向かう。
お腹が痛いのだろうか…
体調が悪くなってしまったのか。
トイレから出てきた男性に、恥ずかしがりながら、誰かいたかを聞いた。
「いなかったですよ。待って下さいね」
親切な男性は戻って確認してくれたけれど、誰もいなかった。
待機室に戻ると、5番目の演奏が終わるところだった。
私は探せる場所は全て探した。
焦って、足がおぼつかない。
伊之助さん…
どこに行ったの?
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