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私の天才!
「7番目の方はステージ横に待機お願いします」
待機室で呼ばれる。
一人で向かう。
「もう一人の方は?」
スタッフの人に聞かれ、
「すぐに来ます」
と伝える。
少し不審そうに見られたが、強い視線を送り、心の中で”絶対来ます”と何度も繰り返した。
「分かりました。来たら教えて下さい」
と言い、スタッフの人は私から離れた。
伊之助さんを信じている。
でも、突然バイトに来なくなった伊之助さんを思い出してしまう。
それは過去だ。
そう言い聞かせる。
不安を消し、これまでの日々を思い出した。
伊之助さんの歌声を聞き、隣の部屋のインターホンを押した事。
条約を結ぶ時のように握手した事。
初めて伝えた夢。
ぎこちなかったカラオケ。
切りがない程思い出せる。
やっぱり私は信じている。
伊之助さんを。
伊之助さんの歌声を。
笑顔を。
「まだですかね?残り一曲なんですよね...」
スタッフの人に言われる。
困っているようだった。
「あ、ええと...」
信じてる。
信じてるから伊之助さん...
「にな絵さん!」
やっぱり。
信じてた。
私の天才が私の元にやって来る。
伊之助さんは走って私の隣に来た。
「本当にすみません。遅くなりました」
スタッフの人も安心した表情になる。
「準備お願いしますね。5分後くらいに本番です」
走り去るスタッフに伊之助さんは申し訳なさそうに謝罪した。
「伊之助さん...」
「ごめんなさい。逃げた訳じゃないんです。本当です。気持ちの整理といいますか...」
「体調は大丈夫ですか?」
「はい。にな絵さんは?」
「伊之助さんが戻ってきたから、大丈夫です」
「いよいよですね」
「はい」
「にな絵さん」
「はい」
「最近のワクワク、本当にいい感じ!です。それに、ワクワクが二種類あるんです」
「二種類?」
「一つは、歌う事ですね」
嬉しかった。
私が伊之助さんの歌声を見つけた!なんて偉そうな事は思わないけれど、伊之助さんが人前で歌う事を楽しいと感じてくれているなら嬉しい。
「もう一つ。気付いたんです」
伊之助さんは優しい笑顔で私の目を真っ直ぐと見た。
「僕、好きです。にな絵さんの事が」
想像もしていなかった言葉に私は固まる。
「僕は恋のワクワクも味わっているみたいです」
「あの…」
「はい?」
「これから本番なのに…」
「あ…そうですよね…でも、告白したいと思ったら緊張が止まらなくて、このままだと歌えなさそうで…」
「オーディションは緊張しないんですか?」
「少しはしますけど、にな絵さんがいるので」
「私は緊張が…というか鼓動が速くなってしまって…」
「僕は、にな絵さんとタメ口で話す仲になりたいです。友達になってもそれは出来なかったから。恋人になりたくて。もちろん仕事のパートナーにもなりたいですし、私生活も…私生活って言うと芸能人みたいな言い方に…」
「伊之助さん!」
「はい」
「正直、今じゃない方が良かったな、なんて思っちゃってますけど…それでも、伊之助さんのそういう所が…好きです」
「本当ですか!」
伊之助さんの笑顔が史上最高のものになったところで、スタッフの人がやってくる。
「7番の方来てください!」
「はい!」
「はい!」
同時に返事して私達はステージへ向かった。
隣には大好きな伊之助さんがいる。
前には憧れのfubeがいる。
そして、私達は私達にしかできない曲を演奏した。
伊之助さんの声は広いステージに優しく響き、優しく溶けていった。
私はその声に時々ハモリ、ギターを弾き続ける。
不思議なほど緊張しなかった。
伊之助さんが楽しそうに歌っていたから。
その姿を見ているだけで、私の気持ちは高鳴りながらも安らいでいった。
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