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びっくらこいた・へーこいた
ほんの一瞬間に、永遠に思える時が過ぎた。
背中から落ちた。幸いにも、鉄のレールの上ではなかった。うめき声を上げる間もなく、僕は身を丸めた。すぐに電車が来るはずだ。
すこし待っても、何も起こらなかった。代わりに幻聴が聞こえた。艶っぽい低音の、女性の声だ。
「ヘロー。もしもし。あなた、だいじょうぶっですか?」
冷めたゆで卵のような匂いが漂っていた。そんな場合ではないのに、「匂いが違う。あの女子高生じゃない」などと、判別する余裕があった。死の直前に時間が引き延ばされる、というのは本当だったのだ。
息をつめたまま、僕は待った。
電車は来なかった。まさかとは思うけど、もう死んでいる? 僕はおそるおそる目を開いた。そうして、はっと息を呑んだ。
すぐそこに見たこともないほど美しい顔があった。天使か女神に相違なかった。
「ここは天国ですか?」
すると形のよい唇が動いて、先ほど耳にした女性の声が発せられた。
「ぷう。びっくらこいた、へーこいた。あなた突然、落ちてくるんだもの」
ユニークな言い回しだけれど、低音が耳に心地よかった。ぴりりと鼻を刺激する、胡椒の香りがほのかに漂っていた。
「僕はホームから突き落とされて……」
だが地面に横倒しになっている僕の目には、美しい女性と青天しか見えなかった。身体を捻るようにして上体を起こすと、どうやら公園の原っぱのようなところにいるのだと分かった。
「線路は? 電車は?」
「ぷぷぷ、何それ。あなた、いつの時代の話をしてるの?」
「いつって……今だよ、令和3年のことだって」
女性の顔から、ふいに笑みが消えた。彼女はバイク乗りのツナギに似た服の胸元をくつろげてペンダントを取り出し、胸の前で強く握りしめた。
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