交換図書

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交換図書

「それ面白い?」  土曜日の市立図書館、現代文学のコーナーで不意に声がかけられた。聞き覚えのある、それどころかいつも無意識に探していた声に晴太(はるた)の鼓動がドクンと鳴った。 「…(みなみ)」  小学校以来となる彼女の私服姿に、晴太の胸は高鳴った。  * 「それ面白い?」  南星奈(ほしな)と初めて話したのは五年前。小学五年の冬。積もりはしなかったが雪の降った日だった。二学期から朝読書という時間が設けられるようになり、それをきっかけに晴太は読書の面白さに気づいたのだ。  図書室に通う回数が倍増し、息子の趣味に漫画以外の本が増えたことを両親は驚きながらも喜んでいた。  ある日、読みかけていた本の続きが気になって、休み時間もずっと本を読み続けていると、星奈が声をかけてきた。一年の頃からずっと同じクラスで、教室で本を読んでいる姿をよく見かけていたが、会話らしい会話はそれまでなかったと思う。彼女はそれこそ昔から読書家で、眼鏡が似合う女子だった。 「…えっと、まだ読んでる途中だけど面白いよ」 「どんな話?」 「冒険物かな。魔法とかドラゴンとか出てくる、典型的なファンタジーだよ」 「ふーん、そっか」  近視が強いだろう分厚いレンズの向こうで、好奇心の強そうな大きな目が光った気がした。そう、それまで眼鏡のせいでよくわからなかったが、彼女の目は随分大きいらしい。 「…読み終わったら…次借りる?」  晴太が言うと、星奈の表情がほんのりと明るくなった。喩えるなら蝋燭の小さな灯りくらいの明るさだが、確かに彼女の表情は明るくなった。 「うん、読みたい」  それ以降、晴太と星奈は恐らく友人と呼べるものになった。  * 「あ、眼鏡がない」 「開口一番に言うことそれ? 卒業以来なのに」  呆れたように、しかし笑って星奈は言った。 「近視がどんどん進んじゃってね。ここまで来たら普通はコンタクトだよって先生に言われてそうしたの」  なんという事だ、と晴太は思った。中学までは恐らく男子の中では自分だけだったはずだ。彼女の目が大きいことを知っているのは。星奈の分厚いレンズは、好奇心で光り輝く彼女の大きな目を隠すためのものだと晴太は思っていた。 「いつからコンタクトにしたの?」 「いわゆる高校デビューですね」  がっくりと肩を落とさなかった自分を褒めてやりたい。 「で、それ面白い?」  星奈が話しかけてくる時、晴太の手にはいつも本があった。持っている本を握りしめ、晴太は意を決して言った。 「ここ図書館だからさ、静かにしなきゃいけないだろう?」 「あ、うるさかったかな?」 「……そうじゃなくて…その……あの………もし時間があるなら……お茶でもしませんか?」  もっと堂々と誘えないものか、と晴太は脳内で己に喝を入れた。  * 「それ面白かったでしょ?」  中学三年間は図書室でしか星奈と会うことができなかった。一度も同じクラスにはなれなかったのだ。  しかし、だからこそ出来たのかもしれないが、晴太と星奈の間で、一つの遊びが生まれた。 「面白かった! さすが南だわ、俺の好みよくわかってる」 「しーっ、図書室ではお静かに」  星奈は人差し指を口の前で立てた。 「…悪い。…俺のおすすめはどうだった?」 「すごく面白かったよ。そっちも私の好みがわかるようになってきたって感じだね」 「いや、俺は好みの範囲が狭いからなぁ…。冒険物以外は読むの苦戦するから、中々南に刺さりそうなやつは探せなくてさ」 「だからその辺の期待はしてないって。単純に、君が面白いと思ったものを教えてくれればいいよ」  冷たく聞こえるがそうではないことを知っている。  晴太と星奈はそれぞれが返却した本のうち、一冊だけを図書委員から「また借りるから」と手元に返してもらい、その本を交換した。 「今回はどんなの?」 「主人公は女の子なんだけど、生まれ育った里を守るために力を求めて旅に出るっていう話。そっちのは?」 「男の方が部員の多い吹奏楽部の話。青春コメディって感じ」 「へー、もう面白そう」  晴太と星奈の間で行われているのは、借りた図書を交換するというもの。ある日、図書室で偶然会い、偶然返却に来た互いの持っていた本を面白そうだと感じ、「じゃあ次は私がそれ読んでみるから、君はこれを読んでみてよ」と星奈が言った。それからずっと、次はいつだと言わなくても、二週間後の返却期限には図書室で顔を合わせた。そして、お互いのおすすめ図書とは別に、次の交換用図書の選抜の為に、面白そうだと思った作品を二冊ほど借りていく。 「しかし、今回が最後の交換になりそうね」  図書室のカウンターの返却期限を見て、星奈がそう言った。三月八日。その一週間後は中学の卒業式だ。 「あ、見てみて。雪が降ってきたよ。寒いわけだ」  窓の外、曇っているガラスを拭いて空を指さした。だが、晴太は雪なんて見ていなかった。 「雪、積もるかなぁ」  いつからか、星奈の目は自分を見上げるようになっていた。いつからか、彼女の教室の前を通る時、星奈がいないか探すようになった。  いつだったか、廊下ですれ違う彼女と目が合ったのに、嬉しさよりも照れが勝って逸らしてしまった。いつだったか、友人に星奈と付き合ってるのかと聞かれ、変な迷惑をかけられないと思い、必死に否定していたら本人に聞かれていた。気まずさを覚えたのは自分だけで、星奈はその後も変わらず、図書交換を続けてくれた。  星奈の眼鏡の奥の好奇心できらきら光る瞳も、背筋を伸ばして姿勢よく本を読んでいる姿も、図書室で会った時に小さく手を振る仕草も、誰も注目してくれるなと、晴太は思った。  思うだけで、結局最後まで、晴太は何も言えなかった。  * 「しかし、珍しいもの読んでたんだね。あれ、去年映画化した恋愛小説でしょ? 誰かの影響?」  星奈はカフェに移動することを快諾してくれた。卒業から一年近く経ち、雪も降り出しそうな寒い道中、晴太は星奈の一歩後ろからついていくように歩いた。彼女をたくさん盗み見れるのだ。  晴太は砂糖の入ったカフェオレを、星奈はブレンドコーヒーをブラックで頼んだ。甘いカフェオレを口に運び、ふぅと息をついてから答えた。 「……あれは…恋愛小説じゃなかった」 「え、映画は恋愛ジャンルだったと思うけど?」 「南もよく言っていただろう? 『恋愛は生きる過程のひとつに過ぎない』『だから恋する為に生きているような作品は苦手』って」 「そうじゃなかったってこと?」 「ああ。…そうか、南は読んでないのか」 「恋愛ジャンルにされてるとあまり手を出そうと思わなくて。『恋愛を含む』って話は好き」  苦そうな真っ黒なコーヒーを星奈は平然と流し込む。かっこいいなぁと、晴太は自分に情けなさを感じた。 「あれ驚いた。話の中にどこにも『好き』とか『愛してる』とか明確な言葉はなかったし、付き合おうとかそうじゃないとかそういうのもない。ただ、懸命に生きる主人公とヒロインが出会って、言葉を交わして、確実に惹かれ合ってるのに最期までそうとは言わない。友情であり友情でない、恋情であり恋情でない。恋に恋する話じゃなくて、懸命に生きている人たちの話だった」  晴太が語る間、星奈も真剣に耳を傾けていた。 「懸命に生きる人たちの話か…。なら、私も読んでみようかな」  ふっ、と肩の力が抜けるような微笑みにを真正面から受けて、晴太は顔に熱が集まってくるのがわかった。 「……あのさ、中学の時みたいに…借りた図書を……交換したり…しませんか?」  晴太の言葉に星奈は目を丸くした。瞬きで動く目以外は停止している。 「もし…嫌じゃなければ…。嫌なら断ってください…」 「ああ、ごめん。びっくりしただけなの。嫌じゃないよ」  星奈はカップを置いて鞄から携帯を取り出した。ぼーっと見ている晴太に彼女は言った。 「さすがに今は連絡先知らないと待ち合わせしづらいでしょう?」  連絡先を聞いていいということだと理解するのに数秒かかった。  南星奈の名前が自分の携帯に入った。彼女のアドレスを見ながら、今更ながら気づいたことを口にした。 「…アドレスのサザンクロスって…銀河鉄道? 南の星って、サザンクロス駅のこと?」 「母が銀河鉄道好きなの。弟の名前も『十の夜』で十夜(とおや)っていうの」  弟と合わせると南十字星だ。 「…じゃあ、南は将来、婿を貰うか『南』って名前の男に嫁がないと南十字星じゃなくなっちゃうんだな」 「…そうね。それなら、君は適任者だね」 「え?」 「そうでしょう? 南雲(なぐも)晴太くん?」  悪戯っぽく笑うところを見る限り、からかわれているだけだとわかる。しかし、迂闊にもいつか彼女が自分の隣に立つことを想像してしまい、顔の熱はしばらく引かなかった。  *  小学校や中学校というのは、非常に狭い世界だ。だから一家庭の事情というのは、本人に聞かずとも耳に入ることがある。  晴太の場合は、何度か現場を目にしたことがあった。年の離れた弟を迎えに行く優しい姉。晴太仲良く歩く姿しか見たことがなかったが、人によっては癇癪を起こす弟を必死に宥める現場に遭遇したことがあるらしい。申し訳なさそうに周囲に気遣いながら、何とか落ち着いた弟を連れて彼女は行ったという。  高校に入り、間もなく二年に進級する。クラス替えの前に集まれるクラスメイトでカラオケに行こうと集合場所の駅で、晴太は星奈を見かけた。雪が降り出しそうな寒空の下、駅という場所柄、人が多く雑音がたくさん耳に入るため、物凄く目立っていたというわけではない。しかし、泣き声を上げて座り込む少年と、その少年に優しく声をかけ、なんとか落ち着かせようとしている星奈の姿がそこにあった。 「十夜、まずはひまわり行こう? 今から買っても冷蔵庫にすぐには入れられないから、帰りなら大丈夫だから」 「やだー! ケーキ! 今買うの!」 「十夜、ここたくさん人が歩いて危ないから、とりあえず端っこに避けよう?」 「いや!いや!」  手を引っ張り何とか端まで行こうとしているが、駄々をこねる少年は頑として動かない。  きっと、星奈にとっては見られたくない現場だったかもしれない。しかし、晴太はもう見てしまった。見て見ぬふりは自分には上手く出来そうになかった。  ゆっくりと近づき、星奈に声をかける。 「何か手伝える?」  肩をびくりと震わせ振り返った星奈は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。 「人見知りとかする?」  そう聞くと、星奈は首を横に振った。晴太はしゃがみ、少年の顔を覗き込むようにして話しかけた。 「こんにちは、俺の名前は晴太。君のお姉ちゃんのお友達です。君の名前を教えてくれる?」  少年はびくりと肩を揺らしたあと、ゆっくりと顔を見上げてしばらく晴太と星奈を交互に見た。 「とおや…」 「十夜くんね。よろしく」  名前を呼ぶと、十夜はじっと晴太だけを見た。涙は引っ込み、興味津々といった感じで上から下まで晴太を観察するように見る。好奇心の塊のような目が姉によく似ているらしい。 「十夜くんはお姉ちゃんとおでかけ?」 「…ひまわりにいくの」 「ひまわり? それってどんなところ?」 「べんきょうするところ」 「土曜日なのに勉強しにいくのか! かっこいいな!」  そう言うと、十夜の表情は少し明るくなった。 「じゃあ南は十夜くんの見送り?」 「う、うん……」 「十夜くん、今日俺も一緒に行っていい? 十夜くんがどんな勉強してるのか教えてよ」 「うん、いいよー」  けろりと機嫌が良くなった十夜は、すくっと立ち上がり、晴太と星奈の手を握って「いくよー」と歩き出した。  十夜を送り届けたあと、晴太は星奈と教室の向かいのビルのカフェに入った。一時間後にはまた十夜を迎えに行くのだという。 「…ありがとう。声をかけてくれたの、すごく嬉しかった」 「いや、俺が南と話したかっただけだよ」 「どこか行くところだったんじゃないの?」 「ん? …うん。でも、毎日顔合わせるやつらと大人数で会うだけの予定だから、俺は抜けても問題ない」  集合場所の最寄り駅で起きたことだった為、万が一クラスメイトに鉢合わせた時に、下手な嘘をついてしまうと余計に気負わせてしまうだろう。晴太は正直に予定があったことを答えた。 「…ありがとう」  下唇を噛み、泣くのを堪えているようだった。 「…南は俺ん家の事情とかって耳にしたことある?」  そう問いかけると、星奈は首を横に振った。 「俺ね、養子なんだ。実の母は産後の肥立ちが悪くてそのままだったらしい。父親も事故であっさり。俺が母と呼んでいる人は本当は俺の叔母で、父と呼んでいる人とは一切の血の繋がりがないんだ」 「……そう…だったの……」 「ああ、大丈夫。親との仲はいいし、俺正直、本当の親を覚えてないんだ。養子になったのは二歳の時だしさ」  今日の星奈は、晴太と同じ甘いカフェオレを飲んでいる。ほっと息を吐くと、星奈は静かに話し始めた。 「…中学の時……何の学校行事だったか忘れたけど、学校で君のお母さんと話したことがあるの」 「え、聞いてない」 「言ってないもん」  今更ながら何を言われていたのだろうかと冷や汗が垂れる。星奈はくすくす笑った。 「お礼を言われただけだから気にしないで。そっちこそ、私のことなんて話していたのか知らないけど、『あの子は本を読むようになってからとても楽しそうなの』って言われた」 「…ああ、うん、あれだ。うん、わかった」  図書交換を始めた頃、一度相談をしたことがあるのだ。全く本の類を読まない母と、本の虫である父に。『女子が好きそうな話ってどんな作品?』と。  母は言った。 『女の子は恋愛ものが好きな人が多いんじゃない?』  そして父は言った。 『晴太が知りたいのは女子の好みじゃなくて、特定の誰かの好みだろう? なら、その子の話をよく話を聞いてみなさい』  結果、二人とも正しかった。女子は恋愛ものが好きな人が多い。しかし、星奈はそうではなかった。 「物語はいいよ。読んでいる間、私は違う誰かになれる。桃から生まれた男の子になったり、月に帰るお姫様になったり、魔法が使えたり強い戦士になれたりする。南星奈という障害のある弟の姉じゃなくなるの」  わかる気がするなと、晴太は思った。物語の世界に入り込む時、どこかの国の英雄になれたり、世界中の知識を有する賢者になれる。動物になることもあるし、妖怪になることもある。実の両親がいないことへの同情なんて、物語の中に入ればされないのだ。育ての両親の素晴らしさを改めて誰かに言って回る必要などないのだ。 「…南」 「何?」 「…俺といる時間は……楽しいですか?」  星奈は大きな目をきょとんと丸くさせた。ぱちぱちと瞬きすると零れてしまいそうだ。 「私、高校で文学部に入ったんだ」  質問の答えとは違う内容が返ってきた。 「文学部? 文芸部じゃなくて?」 「文芸部って執筆したりするでしょう? 読む専の人も入りやすいようにする為に文学部になったんだって。かく言う私も読む専で入部したの。部内のおすすめ図書のプレゼン大会なんてすごく盛り上がるんだよ。それがすごく楽しいの」 「…………へぇ…」  面白くなくて俯きカフェオレを口に運ぼうとすると、「でも」と言葉が続いた。 「でも、そういう楽しさって元々君が教えてくれたんだよ」  星奈は真っ直ぐに晴太を見て言った。 「今度、きちんとお礼させてね」  それからもう少しだけ話をして、あっという間に十夜を迎えに行く時間になった。 「あのさ、南の言ってたお礼って今でもいい?」 「え? 今すぐどうにかなるの?」 「うん。…名前、ちゃんと呼んでもらいたいなって思って」  「え」と小さく驚く声が隣から聞こえた。 「南っていつも『君』って言うだろ? 時々苗字で呼ばれるけど、圧倒的に少ない」 「…まぁそうね。君に限らず人の名前は意識してあまり呼ばないようにしてるから」 「どうして?」 「名前って呼ぶと仲良くなれるでしょう? それが面倒だから」  弟のことをどう説明したらいいかわからなかったし、と淋しそうに笑った。 「…俺とは仲良くなれないってこと?」 「ううん。そうじゃなくて『これ以上仲良くなるのは怖い』って思ってた。…本当は卒業する時、連絡先聞こうか悩んでたんだけどね」  少しの間の後、「そうだ」と星奈はなにか閃いたように言った。 「君が私のこと名前で呼んでよ」 「え、俺は名前呼んでるだろう?」 「苗字じゃなくて下の名前」 「……呼んでいいの?」 「うん。そうやって、君に名前を呼ばれ続けているうちに自信がついたら、その時は君の名前を呼ぼうと思う。…ダメかな?」  晴太は首を横に振った。 「チャンスをくれてありがとう、星奈」  * 「それ面白い?」  晴太好みの甘いカフェオレを飲んでいると、隣に星奈がブラックコーヒー片手に腰掛けた。 「さすが星奈だね。俺の好みちゃんとわかってる。そっちのはどう?」 「面白いよ。最近また私の好みをよく理解できるようになったんじゃない?」 「いや、どちらかと言えば年々星奈の好みの幅が広がって当たりが増えたんだと思う」  ふふと楽しそうに笑い、ふと、星奈が窓の外を見て「あ」と声を上げた。コーヒーの入ったマグカップ手にしたまま窓の方へ近づき、こちらに振り向いた。 「ねぇ、晴太! 見てみて、雪が降ってる」  呼ばれた晴太は彼女の隣に立った。星奈はきっと覚えていないだろう。初めて言葉を交わした日も雪が降っていたことは。 「…随分積もったなぁ」  晴太がそう呟くと、「まだまだ積もるかもね」と星奈は楽しそうに呟いた。
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