2人が本棚に入れています
本棚に追加
3月3日
放課後の教室に、意を決して足を踏み入れる。
「ねえ」
イヤホンをしたままの男子生徒は、私に気付かない。伸びた前髪は表情を隠し、体の揺れに会わせてロックのリズムを刻む。
「何聴いてるの」
彼の集中力を考えれば、休み時間に話し掛けた方が親切だ。わかっていて、クラスメイトのいない放課後に近づく。クラスで浮いている異性に話し掛けられる程、私は図々しくない。それと、少しの優越感。
「新曲のデモ」
パサついた前髪から、漆黒の瞳が覗く。鼻から下はマスクで見えないが、色素の薄い唇にリップがよく映えるのを、私は知っている。
「次のライブで披露する、予定」
「へえ」
伯父が経営するライブハウスで、圧倒的人気を誇るアマチュアバンド。会社員や大学生に交じって演奏する唯一の高校生メンバーは、腕利きのドラマーだ。
「聴く?」
「いいの?」
その素顔は、物静かな男子に過ぎない。知ったのは数ヶ月前、クラスメイトになってからだ。何度かライブに行ったことのある私を知っていたのは、彼の方だった。
「うん」
話し掛けられたのは、始業式の放課後。
オーナーの姪っ子さん、だよね。
マスクと前髪で顔が隠れた状態で、声を震わせる。おそるおそる会話を進めて、ようやくバンドの彼と一致した衝撃を、よく覚えている。
受け取った左側のイヤホンを耳に当てると、ボーカルの澄んだ高音が聞こえる。
「どう?」
「恋愛の歌って、初めてじゃない?」
猛々しい歌詞とボーカルの甘い声のギャップを魅力にしてきただけに、優しく愛を歌うのは新鮮だ。
「初めて、歌詞、書いて」
「へえ」
一目惚れした女の子と距離が縮まっていく喜び。こんな可愛らしい詞を書くなんて、正直意外。
「好きな人、いるの」
興味本位で問うただけだった。だけど機嫌を損ねてしまったらしく、左耳にプチンと痛みが走る。イヤホンを引っ張られたのだ。もう少し優しくすれば、友達もできるのに。私が言うのも、余計なお世話か。
「次、よかったら来て」
奪い取った左耳の分を自分の耳にはめながら、もぞもぞと呟いた。右耳の赤さを見て初めて、イヤホンを分け合っていたことに気付く。
「うん」
潔癖かと思っていたが、案外気にしない方なのかもしれない。彼に関するデータが、またひとつ増えた。
耳の日
最初のコメントを投稿しよう!