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不老不死と眠りゆく町 天暦一〇二一年 六月
幼い頃、父の手は魔法の手だと思っていた。 父を訪ねてやってくる人々はみな笑顔で帰っていく。そんな父に彼はずっと憧れて、その背中を見ていたものだった。
アルバの両親は共働きで、父は家で髪結師を、母は花屋で働いていた。兄弟もいなかったため、家に一人でいる代わりにと本を買い与えられることが多かった。
そんな物語では、空を飛んだり炎を出したりと派手なものが多かったけれど、やってきた人を笑顔にする、という父のほうが、よっぽど素敵な魔法使いだと思っていた。
この頃は人口も面積も半分ほどしかなく、けっして豊かとは言い難い町だった。別の町へ行くための中継地点として、この町を通り掛かる。そんな旅人が時折訪れる程度の静かな町だった。
特産、と言われても首をかしげる。しいて言うなら、この土地この場所でしか根付かないといいつたえられている、月明かりを受けて綺麗に輝く「夜灯花」の栽培を行っていることが挙げられた。
けれど、それもささやかな話だ。花の寿命は短い。保護する魔法を使っても、半年ほどしか保たない。長く保たせるような研究も進められているそうだが、将来に明るい話は聞かなかった。
そんな町が嫌だと都会へ出て行きたがる人も少なくなく、事実アルバの友人もそんなことをよく言っていた。けれど、そこに流されるわけでもなく。アルバはこの町でのんびり生きていけたならそれでいいと思うような、ある種凡庸な少年だった。
そんな町に、一人の旅人が「転機」を持ち込んだ。
その旅人はこのあたりでは見慣れない空色の髪を持ち、片眼鏡をかけた青年だった。長く旅をしているのか外套はよくよく使い込まれていて、荷物にも少しほころびが見えた。けれどそれでも身なりはしっかりとしていて、自動二輪車に積まれた木製の大きな箱が印象的だった。
旅人は薬売りを生業としていた。その箱の中には薬の材料となる草や木の実が入っていて、行商にやってきた、ということらしい。なんでも、この町をわざわざ探してやってきた、とか。これは、父に髪を結ってもらいにやってきた噂好きの女性が父に喋っていたことを、アルバも手伝いながら聞いた話である。
やってきた旅人は、母の勤める花屋を訪れ、夜灯花を手に取り目を輝かせ告げたという。
この土地は恵まれています。この植物は特殊な製法で煎じれば、良い薬になるんですよ。
ぼくは、その薬の材料を探してここまでやってきたんです。
本当かしら、と母は食卓で笑っていた。
母はずっとこの町で生きてきた人間で民話などにも詳しかったが、そんな話は聞いたことがないわ、と話半分で聞いているようであった。
町の人間も、はじめのうちはそうだったと思われる。
ただ、その旅人が語ることがにわかに信じられ始めたのは、彼の作る薬がよく効いたこともさることながら、その「夜灯花」から作られる薬というのが、少しの怪我なら治してしまえるほどの効能を持った、不老不死の妙薬であったからだった。
どんな生き物も老い衰え、死に至る生き物である。
けれど死を恐れる人は多くいた。彼らは時に魔法で、時に医術で、できる限り今の若さを持ち続けて死を遠ざけ、限りある生を脱して不老不死を求めていた。そのためならば、どれだけ金をつぎ込んだところで構わない、という人間は多かった。
それでも未だ、不老不死に至った者はいない。
もしこの話が本当ならば。この町は、その旅人のことばに夢を見た。
旅人の助言を元に、小さな工場が作られた。
摘み、煎じ合わせる薬の調合というのはなかなかに難しい。薬とは魔法の力の及ばぬ先の技術であった。しかも、目指す不老不死の薬はこの世界に広く伝わる魔法を用いても、あらゆる研究者が薬の研究を行っても未だ成しえなかったもの。そう簡単に出来上がるはずもなかった。
ただ、この町はこれを産業としたかった。そのため町の人々の協力を募り、失敗を重ねながら成功を引き寄せるべく時を費やした。
そうして、ようやくその薬は完成した。
本当に不老不死になるのかどうかは、この後飲んだ人間が生きてみなければわからない。けれど、その薬を飲んだ人間は、もとより持っていた魔法でも治せぬ持病や怪我がたちどころに治っていった。人の身体を癒やし治すという幸いすぎる副作用が、不老不死の信憑性を増した。
町に売り出し始められた頃は、はじめこそ眉唾だ嘘っぱちだと散々な言われようであった。
けれど、その副作用的な効能が知られるうちに、薬を求めるものが増えてきた。将来への投資として、希望を込めて、願いを抱いて。
薬の需要は日に日に増すばかりだった。はじめに作った小さな工場ではどうにも追いつかず、売上を使って工場を増やし、同時に原料となる夜灯花の栽培にも手を付けた。町の領土は拡大し、「夜灯花」を栽培する広い農園も増やすことに成功した。
旅人がやってきて、たしか三年ほど経った頃だった。
私も工場に行こうかしら、と言い出したのはアルバの母だった。
加工品の薬として売り出されるようになってから、観賞用としての「夜灯花」を求める人間は激減した。
ただ飾るだけの花を求めるものも確かにいたが、この花々を買いこんで、自ら不老不死の薬を作ろうとするものは後を絶たなかったため、政府が流通を制限し始めた。
それほど人々にとって「不老不死」とは魅力的であったのだと、アルバは年を経てからようやく理解した。幼い頃のアルバには、なぜだか一体理解ができなかった。
癒しを求めるより先に、この町は見えずたどり着けもしない悠久の果てに夢を見て、それを追い続けていったのだと。理解をするのは随分と時間がかかることだった。
そして、それはこの町の人間だけでもなかった。薬は飛ぶように売れ、町はそれによって更に拡大を続けた。平均寿命に至ろうかという人々へその薬をもたらせば、彼らはその持病を抱えながらも生きながらえた。
ひょっとすると、本当に不死の薬であるのでは。
そんな幻想が町を、そしてその薬を買った彼らを包んだ。
アルバの母が、経営の傾き始めたその花屋を解雇される前に自ら辞めて、引く手あまたと言われた工場へと働きに向かったのは、何を言うこともなく自然な流れであろう。アルバはまだ幼く、家族三人がうまく生きていくにはまだまだ収入が必要であった。それは、アルバの父親が為せる財だけではどうにもならない、というのは事実だ。
アルバの母はそうして工場へ入り、父は何をいうわけでもなくその手に銀色のハサミを握り、我が家へ来た依頼人の髪を切り、ときに結って、彼らの笑顔を招いていた。やはり、アルバの中で父は魔法使いのひとりであった。
花屋の花売りしかしたことのない母が、製薬に連なる転職をするのはアルバにとっても驚きで、あるとき一度、「何もわからないところへ行くのは大変じゃあないのか?」と尋ねたことを、アルバは今でも覚えている。工場の仕事はそこまでつらくもないのよ、と母はアルバに言った。
母が言うには、その薬の製法は旅人とこの町の研究者がうまく研究・確立したものであるという。完全なレシピのような調合法は綺麗に書き起こされ、たとえ製薬の知識がなくともうまくつくれるのだという。
その薬の精製方法を伝え終えた後、旅人はこの町を去ったのだと、両親がニュースを見て話していたのをアルバは聞いた。彼自身が、作り上げた薬を飲むことは一度としてなかったそうだ。
旅人は、その薬の使い方などをこの町に置いていった。この町は作り上げた不老不死の薬を特産として、町をより豊かに作り上げていった。
けれど、それは簡単な話でもなければ、順風満帆に進む物語でもあり得なかった。
所詮は絵空事、高望みであったのだと理解がするまでに、そう時間はかからなかった。
製薬に関わっていた作業者達が次々と倒れ、昏睡状態に陥る事件が起き始めたのだ。
彼らは皆呼吸も心拍も正常であった。ただ、眠り込んだまま目覚めない。たったそれだけの「異常」は、今までに例がなかった。
はじめは工場側の過労が疑われた。
けれど、その労働環境や作業内容、作業時間、そして人々の関係も良好で、原因とされるようなものは見当たらなかったという。
不確かな理由で作業を止めるわけにも行かない、と、製薬の工場は程なくして再開された。
原因不明の昏睡事件がおきてから、二週間後。アルバの母も、同じように昏倒した。
*****
アルバは父に連れられ、同じ症状で眠り続ける人々の集まった病棟を見舞いに訪れた。いつもは花や着替えなどを持ってくるのに、今日はまた違ったものを持ち込んでいた。病院の受付で、いつもよりも少し長く話をしている。アルバはそれを待合室の椅子で足をブラブラとさせながら、話が終わるのを待っていた。
木漏れ日の差し込むその部屋にはベッドが六台。眠り続ける人々は、目を覚ます気配がない。医者もすべてさじを投げた。
アルバは母の顔を覗き込む。先日来たときと同じように、母は静かな寝息を立てていた。苦しそうな表情には決して見えない。呼吸も穏やかだ。
父が隣で、眠る母の髪を撫でた。母の髪は癖もなく、さらさらとした銀月色だ。父はよくこうして母の髪を撫でていた。
そこへ、ひとりの看護師が空の車椅子を押してやってきた。アルバの父が頭を下げたので、父が呼んだのだと理解した。
父は母を抱え起こす。看護師も手伝って、車椅子に乗せた。アルバは手伝いとして点滴の袋が引っかかった支えを持ち、車椅子は父が押した。
そうして看護師の先導するあとに続き、やってきたのは空き部屋だった。ベッドもひとつで、少し広い部屋だった。
ただ、母をそのベッドに寝かせるわけでもなく、父は持ち込んだカバンを開いた。
持ち込んだのは、仕事道具を詰め込んだカバンだった。いつもは店から決して出すことのない仕事道具。それが一式入っていた。
大きな布を取り出す。いつも、椅子の下に敷いておくものだった。その上に切った髪が落ちれば片付けが楽だから、と教わった。広げるのを、アルバも手伝う。
敷かれた藍色の布の上へ、銀月色の髪が舞い落ちる。いつも母は少し短めの、毛先を軽く巻いて遊ばせたショートカットを好んだ。髪が軽いと心も軽くなるから、と笑っていたのを思い出す。
母が眠りについてから、二ヶ月が経っていた。
この頃になって、ようやく原因が分かった。
この花は、ただ自生するだけならば何の害もない。摘み活けることも問題はない。
けれど、この薬を作るときは、摘む段階から少し加工を施す。そこから薬の生成に至る過程にて、人にとって有害な毒素を産むことが分かったのだ。
原因がやはり工場にあったというなら、と製薬作業は一時止められることとなった。
その毒素をなくす方法が見つかるまで、もし見つからぬならこの薬を作るのはやめよう、と決まるまでに時間はかからなかった。
けれどまだ、眠りに落ちた人々を目覚めさせる方法は見つかっていない。
アルバは父とともに母の元へ度々訪れ、声をかけたり髪を切ったりする日々を送っていた。
そんな中で、父に声をかけてくる人がいた。
「お金は支払いますので、眠る彼の髪を切ってあげてくれませんか?」
母と同じ部屋に眠る患者の家族だった。その一人を皮切りに、ひとりふたりと頼んでくる人が増えていった。原因が分かるまでにかなり時間がかかっていたため、患者はかなり増えていた。
*****
製薬さえしなければ、町の状況は悪化せずにとどまるだろう。人々はそう思っていたし、アルバもぼんやりとだがそう考えていた。
けれど、その選択肢を脅かすような事件がふたつ、町へ降りかかる。
薬の作用、ひとつめ。
製薬に従事し倒れた人々の身体は検査の結果、確かに老いを脱していたということ。半信半疑、という人間も多かったこの薬は確かに効力を発揮し、不老不死の力は確かであったことを証明したのだ。
そして、ふたつめ。
薬の供給が止まり常飲しなくなった人々が、急激な老化、衰弱により死亡する事件が起こり始めた。
常備薬が切れ、けれど精製方法が危ういとなれば文句も言われず、不満をその身のうちにためている状態だった。
そこへ突然死が相次ぎ、原因を探ったところ全員があの「夜灯花」の薬を飲んでいた。
無関係とは考えられなかった。
薬の生成時に生まれる毒素を取り除く方法は見つかっていない。けれど薬が切れたならば多くの人々が犠牲となる。町は大混乱に陥った。
一度も効力を切らさず飲み続けるのならば、この眠り病にはかからず生き続けることが出来る。けれど、常用するにつれて必要とする量は増え、ゆっくりと身体を蝕んでいく。
今なお薬の常用者は町の内外に多くいるという。完全に製薬をやめる、と決断できない理由がここにあった。
すぐに答えの出ぬ現状に、町の人間全てが迷い行く末を案じていた。
*****
なんとなく目を覚ましたアルバが水を飲みにダイニングへと向かえば、もう深夜だというのに父はまだ起きていた。
父の前には蜂蜜色の液体が入っているボトルと背の低いグラスがあった。グラスの中には砕けた氷と薄まった蜂蜜色。確か、母が好きだった酒のはずだ。
目があって、父は前に座るように促した。思えば、ここしばらく父とあまり会話もしていなかった気がした。アルバはコップに水を入れて、促されたそこへ座る。
「アルバ。この町をどう思う?」
「……どう?」
アルバもそろそろ成人の仲間入りをする歳であって、町の情報も少しずつ入るようになってきていた。
相変わらず、目覚める気配のない人々。薬の収入によって財源の多くを賄っていたこの町は、様々な部分にほころびが出るようになっていた。
父はしばらくアルバの答えを待っていた。けれど、アルバはうまく答えを出すことが出来なかった。父はそれでも促すことはなく、淡々と薄まった酒で唇を湿らせる。
ぽつぽつと、悩みながら。口を開く。
「……嫌いじゃない。母さんは目を覚まさないし、そんな人はたくさんいるし、だけど、それでも、僕が生まれたのはここだし、友だちもいる。嫌いにはなれない」
「――――そうか」
父が手を伸ばしてきた。頭を撫でられる。
撫でられるのは久しぶりだった。もうそんな歳でもない。昔よりもいくらか小さく感じた父の手だったが、アルバにとっては相も変わらず「魔法使いの手」だった。
「父さん。よかったら、さ」
少しだけ、どきどきしながら。アルバは自分の未来を口にする。
「髪の切り方を、教えてくれない?」
アルバも、父のような魔法使いになりたかった。幼い頃に憧れ、今は眠る人々のために髪を結い編む父の姿に、その背中に憧れていた。
父は、少し驚いたようだった。アルバが同じ道を歩むとは思っていなかったらしい。いつも少し眉間にシワが寄ったような、難しいことを考えているような顔をした父の見せるその表情は、初めて見せるものだった。
そうして、この日から。アルバは正式に父の見習いとして、髪結いの道を志し始めた。
実際に人の髪を切るようになったのは数年後。はじめての客は、幼馴染の同い年の青年だった。
アルバはひとつ、気取られぬように心を落ち着かせるために息をつく。
「どれくらいにしましょうか?」
そんな「魔法使いの決まり文句」を口にした。
*****
町は、ふたつの道を迫られた。
眠る人々をこれ以上増やさぬために、不老不死の薬を作ることを金輪際辞めてしまうか。
病によって死に至る人間を少しでも減らすため、眠りに落ちる人々を供物に薬の製造を続けるか。
これは、町の中でもかなり議論は割れた。この町の政(まつりごと)を司る人々の中には、不老不死の薬を飲んだ家族を持つ人もいれば薬を作るための農園で眠りについた人々がいる。
アルバですら、この問題はずっと大変なんだ、と気づけるほどだった。
対話は一月にも及んだ。
どちらにも人の命がかかっていた。それは彼らの親族であり、大事な人であり。譲ることの出来ないその人命をいかに守るか。
それは、いかにして他者を見殺しにするのか、という決断にもつながっているように、アルバは思った。
結果として、この町の全ての有権者を集めて投票を行われることになった。
議題は、この町で製薬を続けるかどうか。
どちらがいいのか、など。簡単に答えが出るような問題ではないのが、町の住人誰しも分かっていた。
参政権のある全ての人々が、製薬による犠牲に目をつむり不老不死と謳われた彼らを助けるか、作られた薬にすがり生きる彼らを見殺しにするか、そのある種究極の選択とも言えるそれに頭を悩ませた。
簡単に答えは出ない、けれど答えは出さなくてはならない、と行政も分かっていたからこそ、告知から投票まで三ヶ月という期間が取られた。それはこの町の選挙においてはかなり長い部類であった。
町の人間総出で行われる投票を来週に控えたある日。
アルバの父が病に倒れたのであった。
見た目よりもずっと無理をしていたらしく、入院するなり医者には随分と叱られた。他に身よりもいなかったので、病状に関する話はアルバが聞いた。
今出来ることは、ほんの少しの延命治療しかないこと。
治す方法は無くもないが、それは果たして治すと言っていいのか判断に困る、というものしかないこと。
煮え切らない医師の言葉に、アルバは首を傾げた。
「これまで、この病は「夜灯花」の薬を飲んで治してきたんですよ」
医師の言葉に、アルバは少し目を伏せた。
あとになって思えば、父がアルバに「この町をどう思うか」と尋ねてきたその時には、既に自分が病床にあると父はわかっていたのかもしれない。ただ、その真意はやはり想像できなかった。
真相は、わからないままだった。
*****
予定通り、投票は行われた。
ただその投票率は、この町で行われたどの選挙よりも高いものであったという。
投票の結果、この町は薬を作り続けることが決まった。もしも賛成出来ないと言うなら国外へ退去することを提案した。それほどまでに、この町は頑なだった。
けれどそれも、出ていけるだけの当てがある人間ばかりの話、である。
この町の大半は、老いもせず眠り続ける彼らを町中に囲いながら、その副作用がいつ自分に降りかかるのかを恐れていた。しかしそれでも外へ出て生きるすべを持たない人々は、この町に残るより他になかった。
製薬が始まったが、病のことは町中の人間が知っていた。従事者は減り続けた。
今その職についているのは、家族に服用者がいたもの、そして町の外から、薬を求めてやってきた人間くらいのものだった。それぞれ、やむにやまれぬ事情があった。
町は、増え続ける「眠り続ける住人たち」へ向けての支援を充実させ始めた。
無論、この副作用をどうにかするべく研究は続けていたが成果は出なかった。いつ効果が現れるかわからない未来よりも、今見えている現実に対応するべきという意見が多かったのは事実だ。
町は、眠り続ける人々用の病棟を設けた。数人一部屋という相部屋から、金は少しかかるものの個室を用意することも出来るような、解決法がいまだ見えない現状では「死する人々を終わりまで導くため」の処置でもあった。
薬の製薬が始まった後でも父は、その服用を拒んだ。飲めば助かる、というのが理解できた上で、だ。
薬を飲めばいずれその眠りからは目覚められなくなる。けれど、そのまま死にゆくよりはよっぽど長く生きることが出来る、と医者と町の人々は言った。
これから、薬の改良もきっと進む。眠り続ける彼らが目を覚ます時もきっとやってくる。
死んでしまっては意味がない。
いつか、目覚める。その意志を持って眠りにつくことを望んでこその生だろう、と。
けれど、父はそれを拒んだ。
その理由を聞いたことはなかったが。なんとなくの予想ならつけるのは容易だった。
あの不老不死の薬は、ある意味正しくその効力を発揮していた。
眠り続ける人々は、まるで時が止まったかのように、外見の年齢を取らなかったのだ。事実、軽く二桁ほど年月が過ぎている患者も、眠りに落ちる前の写真を見せてもらえば姿はまるきり変わらぬそのままで、周りを囲む人間がどんどん年老いていた。
つまり、目を覚まし生きている人間と、どんどん歳が離れていくことを示すのだった。
自分を置いて、彼ら目を覚まさぬ人間がどんどんその安らかで永久(とわ)なる「眠り」へいざなわれていく。
それは、ここに生きる人間としては「置いていかれた」という気持ちが大きかっただろう。その薬が本来もたらす作用としては、ほとんど変わりがなかったとしても。
いつかは同じように年を取ることができるかもしれない。
けれど、それが確約されていないのならば。わざわざリスクを負いたいとも思わない。
つまりはそういうことなのだろう。
アルバは両親の看護を続けながら、この町でひとり髪結いの仕事を続けていた。もともと父の顧客だった人は、息子が同じ髪結いになったなら、と父のことを案じながら今でも贔屓にしてくれる。また、父が培った人脈も功を奏した。眠り続ける人々の髪を整えてほしい、という依頼は変わらず数多くよせられた。
この町にいる髪結いは別にアルバひとりではなかったはずだが、同業者同士で話をするわけでもなければ集まることもまずない。他の髪結いが、アルバのように仕事を受けているかはわからなかった。
ただ、聞くところによればこの病棟に髪結いを「仕事」として入ってくる人間はアルバひとりなのだという。
特に空気感染するわけでもないこの病を気味悪がっているのか、わざわざ出向いてまで仕事をせずとも、自分の店で客を受け付けるだけで手一杯なのか。推測はいくつも出来たけれど、アルバにとってはあまり意味を持たないことだった。他者と自身の生き方を比べる必要がないと思っていた。それは、彼の信念に近い。
ただアルバは、「魔法使い」のマネごとがしたかっただけだった。
自分の腕には、皆を喜ばせるような「魔法」を扱う技術がない。
けれど、自分の尊敬した「魔法使い」がいまはその力を振るえぬというのなら、きっと誰かがその魔法を見せてやるべきなのだと思った。
父の使う「魔法」に憧れて、ここにいる人間がいるのだ。それはきっと、間違いではない。
ある日、父はアルバに尋ねた。
「お前、出ていく気はないのか」
それは、問いかけの様相を呈していたけれどもそのままではなく、もし出ていきたいと言うなら咎めも問い詰めもしない、ということだったのだろう。
アルバは少し視線をさまよわせもしたが、ゆるやかに頭を振った。
「ないよ。僕は、この町にまだいたい。父さんから教わったことを、それからまだ髪を切ってほしいって願ってくれる人をおいて、外に行く気はしないよ」
父が動けなくなったというのなら、代わりに自分が動きたかった。父を超えられるとは決して思えなかったけれど、それでも数をこなせば近づけるのではないかと思った。
それを、少しは父も汲んだのだろうか。アルバの言葉に反対することはなく、ただひとつ、頷いた。
「お前の好きなようにやりなさい」
それを告げた父は、どこか満足したような、安心したような。アルバは一度も見たことのない、柔らかな表情をしていた。
*****
結果的に、町は患者を抱え続けることになった。当然、抱えきれるものではないのが誰の目からも明らかだった。
そのため、町は一つの方策を出した。
それが、眠れる住人の縁者すべてが合意したときにのみ、その者を安楽死にかける、というものだった。
当然のことながら、賛否両論の議論が繰り返された。アルバはただ髪を結い、整えながら、客の願いを聞きつつ話をして、全住民の投票日を待った。
それぞれの立場があった。アルバのように身内が眠れる住人になってしまった人、過去に薬を飲み、いつ目が覚めなくなるか不安を抱えた人。そしてそれだけの意見があった。
投票の結果、町の出した方針は町の決めた規則になった。
その後、父の病棟へ町の役人がやってきた。今眠り続けている母を、このまま生かしておくか、旅立たせてやるのか。それを尋ねに来たという。
アルバは父の方を見やる。願いを告げるなら父が先だと思ったし、アルバには決められない、とも思った。父は、本当に母のことを愛していた。
父はそのアイスブルーの瞳を伏せたまま、しばらく黙して語らなかった。もともと口数が多い方ではなかったが、こうして黙するのは大概、何を置いても伝えたいことがあるときだった。
「私の命が終わるときに、妻を一緒に連れて行かせてもらいたい」
役人が去ったあと、父はアルバへ謝罪を口にした。お前だけを置いていくことになる、と。
アルバはゆっくり頭を振った。
その一月後。父は母とともに旅立っていった。
アルバはそのまま、この眠れる住人達の町で髪結いを務めている。
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