紙風船ガム

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 シギ屋が何屋なのか、一見して燕には分からなかった。  外観と異なり壁も什器も真新しい店内には、持ち手が底側に付いているティーカップ、銀色の粒が下から上へ逆流している砂時計、パッケージに賞味期限と調理法が書かれたUSBメモリなど、珍品奇品が陳列されている。壁際に据え付けられたスピーカーからは、ダブステップと落語のマッシュアップが流れ続けていた。 「つい先日、ここに店を移したばかりなんです」  レジカウンターに置かれたダンボール箱に手を入れながら、子供のように小柄な店主が言った。  一色牡丹と名乗ったこの人物は、本人によればとうの昔に成人しているらしかった。ダンボールから紙製の小箱を取り出すちんまりした指を眺めながら、本当だろうかと燕は思う。とはいえ、牡丹の振る舞いや言葉遣いに世慣れた印象を受けるのは確かだった。 「今日は開店のご挨拶ということで、皆さんに商品のサンプルを配っていたんですよ」 「それがあの紙風船なんですね」  燕が言うと、牡丹は肯定とも否定ともつかない曖昧な微笑を浮かべた。 「すぐお渡しできなくて、ごめんなさいね。ちょうど手持ちが切れてしまって」  牡丹は小箱を手に乗せて、燕の方へ差し出した。マッチ箱ほどの大きさをしたパッケージには、様々な色や模様の紙風船を描いたイラストを背景に「紙風船ガム」と印刷されていた。  燕は小ぶりな手のひらから箱を持ち上げた。揺らすと中身がカチカチぶつかる音がする。上面の隅を見ると、飾り気のない文字で「十粒入り」と小さく書かれていた。  牡丹に「お一つどうぞ」と勧められ、燕は小箱のフタを開けた。中身を一つ摘まみ上げると、鮮やかな水色をした丸い粒が現れた。幼い頃によく食べた駄菓子のガムを連想しながら、燕は水色の粒を口に含んだ。  そっと噛んでみると、甘酸っぱいソーダ風の味が舌に広がった。歯触りは心地良く、それなりに美味でもある。とはいえ変わった特徴があるわけではなく、ごく一般的なガムの味わいだった。 「ガムに息を吹き込んでみてください」  牡丹の言葉に従って、燕は吐息を思い切りガムに吹きかけた。口内にぬるいそよ風が流れた。  ぺちん。失敗した指パッチンのような弱々しい音が鳴るのと同時に、かさかさした感触が唇の間を滑るように通り抜けていった。 「おわっ」  口元を押さえながら、燕は眼前に現れた物体を丸々と見開いた目で眺めた。  表面に精緻な世界地図が描かれた、地球儀のような紙風船がふわりと宙に舞っていた。落ちていく紙風船に腕を伸ばすと、乾いた和紙の感触が手のひらに伝わる。  掌中の南極大陸をポカンと眺める燕に、牡丹が「面白いでしょう」と声をかけた。 「紙風船になるガムなんです」 「どっ、どういう仕組みなんですか?」  急くように燕が尋ねると、牡丹は眉尻を下げて困ったように微笑んだ。 「ごめんなさい、分からないんです。知り合いのメーカーさんの商品なんですけど、説明を聞いても難しくって」  牡丹はぎこちない口ぶりで、十個ほどの英単語からなる長々しい技術名を挙げた。燕は真剣に耳を傾けたが、三単語目を聞いた辺りで思考が停止した。 「まあ、仔細はともかくとして。こんなこともできるんですよ」  燕の手からガムの小箱を取り、牡丹は自分の手のひらに二つの粒を転がした。鮮やかな赤と黄が、蛍光灯の光を浴びてつやつや煌めいている。  牡丹は二色のガムを一度に口へ入れた。血色のいい頬を何度か動かしてから、ぴたりと全身を静止させる。  パチッと焚き火が弾けるような音が鳴り、牡丹の口からオレンジ色の紙風船が飛び出した。  燕は再び目を丸くし、牡丹の手元へ落ちていく紙風船を凝視した。燕の手にある地図柄のものより一回り大きく、牡丹の小さな手のひらから多少はみ出している。 「おぉ……ガムの数だけ大きくなるんですね」 「七粒まで増やせるそうですよ。それより多いと紙風船が割れてしまうんですって」 「七粒……」  燕は神妙な顔つきで呟いた。  ガムの箱には十粒入りと書いてあった。先ほど燕が一粒食べ、今しがた牡丹が二粒食べ、残りはちょうど七粒。それらを全て束ねたとして、どれほど大きな紙風船が生まれるか、燕の心中でぷくぷくと興味が膨れ上がっていた。 「あの、七粒で試してみてもいいですかっ」  ここ数ヵ月で最速級の早口で燕は言った。勢いよく言葉を切ってから、慌てて「ガムの代金は払います」と付け加える。  牡丹はぱちぱちと瞬きをして、「まあ」と感心とも呆れともつかない嘆声を発した。  胸中にじわりと不安が広がり、燕の喉元に「ごめんなさい」と叫ぶ声がせり上がってきた。口を開いてそれを放つ寸前、牡丹が「気が合いますね」と伸びやかな調子で言った。 「限度いっぱいでどうなるのか、私も気になっていたんです。サンプルの余りで試すつもりでしたけど、せっかくですから今やってみましょう」  オレンジ色の紙風船をレジカウンターの隅に置き、牡丹は燕の手を取った。地図柄の紙風船が引き取られ、代わりにガムの小箱が渡される。「お代はいりませんよ」と牡丹は柔らかく笑った。  大口を開け放したまま、燕はかくかくと小刻みに頷いた。  渡された小箱を傾けると、色とりどりの丸いガムが手のひらへ転がり出てくる。すうはすうはと忙しなく深呼吸をして、燕は七色の粒をまとめて口に押し込んだ。  果物や炭酸飲料の風味が舌の上で交錯し、ガムは一体となって口内をぶよぶよした感触で満たしていく。雑然と混ざり合った味は美味を飛び越えて珍味の域に達し、燕は我知らず瞳を潤ませていた。  ガムの塊を噛みながら、燕は天井をちらりと見上げた。高所に陳列された品物はなく、頭上には十分な空間がある。紙風船の射出位置をイメージしつつ、七つが一つとなったガムを、舌で押して口の前方へ移動させた。  視線を落として牡丹を見る。凪いだ海のように穏やかな表情で、牡丹は小さな頭をこくりと頷かせた。燕はぶんと首肯を返し、鼻から空気を吸い込みながら天井を見据えた。  燕は肺活量の限りを尽くし、ガム塊に向かって吐息を放出した。口内に強めのそよ風が流れた。  ニワトリが叫んだような甲高い音が店内に響き、燕は肩を跳ね上げた。  音が止むと同時に、かさつく感触が口元に生じ始めた。一瞬のことだった先ほどと異なり、薄い膜のようなものが唇を滑っていく感覚が持続している。燕は目を白黒させ、ガムの空箱をぎゅうと握りしめた。  数瞬の間を置いて、不意に感触が消えた。燕は空中に現れた物体を見つめながら、意味もなく瞬きを繰り返した。  燕の口から飛び出した紙風船は、球よりも犬に近い姿をしていた。  頭や胴体、脚や尻尾を模した部位があり、暗灰色のグラデーションが毛並みのように広がっている。両腕を伸ばして受け止めると、子犬ほどの存在感があった。ガム七粒を費やしただけあって、地図柄やオレンジ色と比べてずいぶん大きい。  表面を指でつつきながら、燕は「ほへえ」と間の抜けた嘆息を漏らした。大きさはともかく、形状まで複雑に変化するとは想像していなかった。 「七粒の時だけ、特別な形になる仕掛けなのかもしれませんね」  牡丹は緩やかに表情を綻ばせて言った。 「そういう遊びを仕込むのが好きなメーカーさんなんです」 「凝ってますね……」  感嘆と苦笑が入り交じった気分で、燕は腕に抱えた紙風船をしみじみと眺めた。 「犬の形をしてるのも、何か意味があったりして。会社で飼ってるとか」  燕が冗談めかして言うと、牡丹ははっとしたように目を丸くした。 「形にも意味……おっしゃる通りかもしれません」 「えっ。そ、そうなんですか?」 「この大きな紙風船が、犬ではなくて狼だとするとどうでしょう」  大きな紙風船。狼。  燕は頭の中で牡丹の言葉を反芻した。回転する思考の渦が、スピーカーから流れるダブステップ落語のリズムと溶け合い、一定の方向性を織り成す。  収束していく渦の果て、一つの着想が閃光のような輝きを放ち、燕の脳裏を煌々と照らした。  ぴくぴくと頬の筋肉を引きつらせ、燕は「く、くだらない」と呻いた。 「『大紙(おおかみ)風船』って、しょうもないダジャレじゃないですかっ」 「ダジャレも好きなメーカーさんなんです」  くすくすと笑い声を上げながら牡丹は告げた。言われてみると、そもそも「紙風船ガム」という商品名からして、紙風船と風船ガムを引っ掛けたダジャレだった。  風船がしぼむように両脚から力が抜け、燕はその場ですっ転びそうになった。体勢を崩して大紙風船を空中に放り出す燕を眺めながら、牡丹はあどけなく笑う幼子のように、楽しげに呼吸を弾ませていた。
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