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紙風船を持った人とやけにすれ違うことに気づいて、沢井燕は早足気味の歩調を緩めた。
休日昼過ぎの商店街は、それなりに多くの人出で賑わっていた。そのうちの三割ほどが、手のひら大の小さな紙風船を持ち歩いている。美しい色や模様のもの、鳥や魚の造形を模したもの、Wi-FiやBluetoothのマークが全面に描かれたもの。彩り豊かな風船たちは、通りがかりに眺めるだけでも目に快い。
賑々しく楽しげではあるが、日常の風景にしては少々紙風船の数が多すぎる。
イベントか何かで配っているんだろうか、と燕は思う。そうであれば眼前の所持率に説明がつく。燕が知らないだけで、世間で紙風船が大流行している可能性もないではないが。
市松模様の道を進みながら、燕はきょろきょろと忙しなく周囲に目を配った。パン屋の店先に置かれた、腹が鳴りそうなほど精巧なベーコンエピの模型。入ろうか迷うように歯科医院の前で足踏みするアマガエル。目を引く事物はいくつかあるが、紙風船の出所は見当たらない。
あちこち視線を散らして進むうちに、段々と通りの突き当たりが近づいてきた。
左右に分かれた道の手前に、小学生くらいの年恰好をした数人の子供が集まっていた。子供たちは緊張した面持ちをして、一人の子供を輪のように囲んでじっと見つめている。囲まれている子以外は、皆それぞれ紙風船を手に持っていた。
輪の中心にいる子供がぷくりと頬を膨らませた。瞬間、燕は踏み出しかけた足を止めた。
ぺちん。気の抜ける音と共に、子供の口から小さな紙風船が飛び出した。
小豆色の紙風船が宙に浮かび上がり、子供が差し出した手のひらへ降りていく。「すげー」「もっかいやって」と湧き立つ子供たちを、燕は片足のかかとだけ浮いた体勢のままポカンと眺めた。
「これこれ、あなたたち。次で最後と言ったでしょう」
口から紙風船を出した子供が、諭すような調子で言った。
「後はおこづかいで買って遊んでくださいね」
「いくら?」
「一箱三百円です」
「たけー」
「じゃあいらなーい」
けらけらと軽快に笑いながら、子供たちは囲みを解いた。立ち尽くす燕のすぐ横を、紙風船を手に走り去っていく。いくつもの小さな背中はあっという間に雑踏の向こうへ消えていった。
「気ままなものですね」
淡い苦笑を浮かべながら、一人残った子供が燕の方へ近づいてきた。足取りはゆったりと落ち着き払い、幼い外見よりもずっと円熟した印象を受ける。
「あなたはいかがですか? ご興味ありませんか」
燕の顔を見上げながら、子供は手に持った小豆色の紙風船を掲げた。間近で見ると、紙風船には無骨なゴシック体で「大納言」と刷られていた。
商店街に広まる紙風船の出所だ、と燕は直感した。赤べこのように首をぶんぶんと縦に振り、興味津々の心境を表現する。
子供は「それは幸いです」と相好を崩し、突き当たりの正面にある建物を指さした。
鈍い金縁の看板を掲げる、外壁の褪せた近代風の建物だった。看板には瀟洒な書体で「屋ギシ」とあり、その下にくちばしの長い鳥が小さく描いてある。ヤギシって何だろうと眉根を寄せた直後、燕は右から「シギ屋」と読むのだと気づいた。
「ぜひ私の店においでください。面白いものをお渡ししますよ」
紙風船を手のひらで転がしながら、子供は突き当たりの建物へ悠然と歩き始めた。
ごくと唾を飲み込み、燕は子供に続いて一歩を踏み出した。浮きっぱなしのかかとを失念していたため、危うく体勢を崩してその場ですっ転ぶところだった。
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