この町に街宣車が来る前に

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 あなたにはあらゆる抵抗権がある。近代史は抵抗権の成立とともに始まった。納豆への抵抗、ナワトビへの抵抗、黒ヒゲ危機一発への抵抗……。  あらゆるものに抵抗するあなたは野良犬のように田舎町をさ迷っていた。当然、権力とも無縁だった。  「味噌煮込みがいいんだ」とあなたは言った。「この町は味噌煮込みのおでんがいい」  あなたは自由だった。だが、あなたの自由など、麻酔銃一発でおしまいのはかないもの。  「大丈夫」とあなたは言った。「麻酔銃で爆睡してても、この街には街宣車が来るから。すぐに目が覚める」  その街宣車は何を宣伝するんだい?  「入道雲」  え?  「うそ。君を」  え?  言っていることがよく分からない。  「何事にも妥協は必要だ」とあなたは言った。「君は今まで十分幸せに生きてきたのだから、君のことが皆に少し知れ渡るぐらいいいだろう?」  言っていることがよく分からない。  それこそ、抵抗権を発動する。  「『便秘とエアギター』は『天使と悪魔』『ウサギとカメ』みたいに対概念だ」とあなたは言った。「『過大と過小』だからね。君は今まで野良犬と違い、家ネコのようにぬくぬく暮らしてきたのだから、少しくらい外に晒されてもいいだろう?」  ネコはネコでも、シュレディンガーのネコ。生きているか死んでいるか分からないような生活だった。どんな人生もそうだけど、けして順風満帆じゃなかった。  「物理学より社会学を学べ。デュルケムの『自殺論』はいいぞ。それにこの町にはヤモリが棲んでいる」  そりゃ何匹か棲んでいるだろうさ。  「『何匹か棲んでいる』どころじゃない。入道雲のような巨大な竜巻がこの町を襲ってきたら、ドサドサッと降りつもるぐらいヤモリは棲んでいる。でも、彼らは地面に叩きつけられない。壁にしがみつく。彼らが壁から落ちないのは、吸盤や粘液によるものではなく、ファンデルワールス力(引き合う分子の力)によるものだ。君も私もこの町に来たのは、ファンデルワールス力に引かれてのことだ。きっと」  ファンデルワールス力って、物理学の話じゃ…。  「つながりが、自殺への抵抗をもたらす(まあ、無理なつながりは要らないが)。でも」とあなたは言った。「私はしがない野良犬。愛妻家にも体育会系社員にもなれない」  体育系社員になるんだろ?  「そのうちね」  そのうち、そのうちって、いつまで経ってもダメじゃねぇかよ。どのツラさげて、また「そのうち」って言うんだよ。これから来る街宣車以上に、もう何度も何度も「そのうち」って叫んできたじゃねぇか。さっさとなっちまえよ。愛妻家に。  「『憧れのわたし』に抵抗するのは、いつもわたし自身だった。『憧れのわたし』など、ヤモリのエサにすぎない。だから」とあなたは言った。「この町によく来たね、わたし。この町によくいてくれたね、君」
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