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甘く柔らかなその唇が、遂に降ってくる。そう覚悟を決めて待っていたのだが――。
――……あれ?
芽衣子の唇はおろか、眼前を掠めるのは空気のみ。
恐る恐る瞼を押し上げたのを合図に、彼はいともあっさり腰から手を離し、元のように再び右手をスルリと取った。
「あ、あの……」
「……さて。戯れは終いだ。今日の目的は花見だからな。早く向かわねば、君が人混みにのまれてしまう」
そう一口に澱みなく告げるや否や、スタスタと歩き始めた彼。
芽衣子は暫し、その鼠の背広を着こなした背に呆気に取られていたが、ここにきて漸く何をされたかを理解しぷるぷると小刻みに震えた。
――か、か……揶揄われた……っ!
「ひ、酷いです……。流伊さんの意地悪……」
彼に一切の悪気などはなく無論冗談だということは分かっているが、それでも唇を尖らし不平を零さずにはいられない。
そもそも彼はこのようにして、人を揶揄う質だっただろうか。
出逢った頃は人一人寄せ付けぬ、残忍で無情な、しかしどこか哀しげな色をその緑に宿していた気がする。
しかし今は――。
――少しでも私に、心を許してくださっているといいな……
願わくば、否、どうか切にそうであってほしい。
芽衣子は、繋がれた手にキュッと軽く力を込めた。
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