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しかし芽衣子は、ふるふるとかぶりを振り「そうですか……兼子先生が……」と呟き、懐かしさから思わず頬を緩める。
兼子の氏名は渋沢兼子といい、芽衣子が生まれ育った東京養育院の院長を務める、渋沢栄一の妻である。
両親の顔も名前も知らない芽衣子は、二人を実の父母のように、そしてまた祖父母のようにも慕っている。
「兼子先生も栄一先生も、お元気にしておられましたか?」
女学校に入学してからは、あまり会いに行けていないこともあり、強く思いを馳せる。
「あぁ。あの頃と変わらず、暖かく出迎えてくださった。栄一先生に至っては、相変わらずお忙しそうに動き回っておられたが」
苦笑混じりにそう答えた流伊に、芽衣子もくすりと微笑を零す。
「本当に凄いですよね、様々なことに精力的に取り組んでいらして。……少しだけ、寂しくも感じますが……」
兼子も栄一も、毎日養育院を訪れていたわけではなく、二人と過ごした時間は多くはない。
しかしあの頃の幼い芽衣子にとっては、唯一自身を暖かく包んでくれた、貴重でかけがえのない時間だった。
「……今は、僕がいるだろう」
ぼそりと、ややぶっきらぼうに呟かれたその言葉に、「え……?」と俯けていた顔を上げる。
「君が寂しく感じる必要はない。……これからは僕が隣にいるのだから」
「流伊さん……」
思いがけない暖かな言葉に、真摯にこちらを見つめる緑の瞳に、ほろりと頬を熱いものが伝う。
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