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相変わらず、広く大きな背中だった。
格別早足でもないのに、肩が風を切っている。
(直接お目にかかるのは、十日ぶりくらいだ)
至高の書を編むという若き学者集団に叩き込まれたセリスは、文字通り寝食を忘れて打ち込むことになり、時間の経過に関しては記憶が著しく曖昧であった。
いつ何を食べ、いつどこで寝たのかよくわからない日もある。
さすがに灯りの不始末があってはいけないので、暗くなってからの行動は気を付けているのだが、書架の間でいつの間にか寝てしまったときもあった。
そういう日の翌日は、決まってきちんと自室で目を覚ます。
帰った記憶の無さに不気味なものを感じたりもしたが、エスファンドをはじめとした面々に会うと全部が吹き飛んでしまう。
目の前の仕事に取組むことに心が囚われてしまって、容易に抜け出せなくなっていた。
「なかなか様子を見に行くこともできなかったが、ずいぶん馴染んでいるようだな。エスファンドは面白いだろう」
「アルザイ様がお忙しいのは存じ上げております。エスファンド先生の件は、本当にありがとうございました。毎日が幸せです」
アルザイが立ち止まり、肩越しに視線をくれた。
セリスもまたぶつかるわけにはいかないので足を止めた。
向き合うように振り返ったアルザイが、そっと手を伸ばしてきた。
指先が頬に微かにふれる。何をと思って見上げれば、どういうわけか、アルザイのまなざしはひどく優しい。
「少し痩せたな。食事は疎かにするな、体力が落ちるぞ。剣の稽古の時間もないんだろう。すぐに腕が落ちる。目の前のものに熱中するのもいいが、自分が誰かを忘れるなよ」
視線に搦めとられたように呆然と見上げていると、力強い腕を背に回されて軽く抱き寄せられる。意図がわからずにされるがままになる。
耳元に唇を寄せて囁かれた。吐息が耳をかすめる。
「お前は月の姫だ。少年の姿をしていたところで、隠しきれてはいない」
すぐに腕を離されて、解放される。
(今のは何?)
事態を飲み込めずに戸惑うセリスを置いて、アルザイはすでに歩き出している。
セリスは、慌てて広い背を追うことになった。
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