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口の中が乾く。何か言わなければいけないのに、言えない。
そのまなざしから、逃れられない。
手を払うことも、出来ない。何かが起きてしまいそうで、恐いのに。
そのままの状態で、もっと時間が過ぎていれば、あるいは何かがあったのかもしれない。しかし、その時は訪れなかった。
「俺が思うに、一番の悪い虫はやはり王子だろう」
ラムウィンドスは、音も無く革の長靴を履いた足を振り上げ、容赦なくゼファードの腹を蹴り飛ばした。
ヒットした瞬間、何か妙に生々しい音を聞こえた。
おそらく、床に落としたカエルを誤って踏みつけてしまえばあんな音を立てて絶命するかもしれない、という類の物悲しい音だった。
容赦ないその一撃によって、ゼファードはまともに背中から床に叩きつけられていた。
かろうじて無事だと知れたのは、腰をさすりながら半身を起こしたゼファードがぼそぼそと文句を呟いたときだった。
「ラムウィンドス……お前の愛は私には激しすぎるよ」
「おかしいな。俺は王子に愛を捧げた覚えはないんだが」
「それこそおかしいよ。私は毎日愛を感じまくっているのに」
「気持ち悪いこと言ってる余裕があるなら立てよ。次は本気でいくぞ」
いまの一撃を見ただけでも、冗談を言っているとは思えない。ゼファードもまたそう思ったのか、そそくさと立ち上がり、大きく距離を確保していた。
「ラムウィンドス……様は……何者なんですか」
ようやくセリスはその根本的な疑問を口にした。
たしか、自分の認識が間違えてなければ、国で一番偉いのは国王陛下だ。
ついで、王子や王女というのも、とりあえず敬われる立場にあるはずだ。
ラムウィンドスという名の兄弟がいるとは聞いたことがない。
かといって、では無条件で敬われるような年長者であるかといえば、見た目はゼファードとさして変わらぬように見える。端的に、態度が不遜である以外に彼を偉そうに見せる要素はない。
一体何者であるというのか。
「様をつける必要はない。姫は俺の部下ではない」
セリスの疑問を断ち切るようにラムウィンドスはそう言い、そのまま歩き出した。
見送ったゼファードが、やれやれといった調子で言葉を継ぐ。
「イクストゥーラ王国軍、全軍の長、総司令官殿だ」
「総司令官……。それは、王子と、どっちが……」
「うん。言いたいことはなんとなくわかるけど、傷つくからやめてくれ。私はこれで非常に繊細でね。下の者に散々冷たくあしらわれ、あげく蹴りを入れられているなんて、お前はそれでも本当に王子か。なんて言われたら三日はベッドから起き上がれなくなるよ」
「はい。言いません」
これまでにない力の入った笑みを向けられ、セリスは疑問の一切を封じ込めた。
「よし、やっぱり姫は素直でいい子だね。では、行こう」
ゼファードは満足げに頷く。身体のどこかが痛んだのか、不自然な角度で頷きを止め、腰をおさえた。セリスは思わず腰をかがめて手を差し伸べかけた。
「おい、いつまでそうしている。さっさと来い。怪我人は置いてきて良い」
先に行っていたラムウィンドスが、振り返って声を張り上げてきた。
「……怪我人は置いていかれるのですね……。戦場って、そういうものなのですね」
一切の疑問を封じ込めたセリスは、このときもまた反論を封じ、差し伸べた手を宙できゅっと握り締めた。
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