往来での一瞬

3/3
前へ
/265ページ
次へ
 薄汚れて埃っぽい旅装に、日差しを避ける布で頭部から首まで覆い隠した青年である。  顔は見えなかったが、声は若かった。  エスファンドをかばうように、リーエンが前に出ようとする。エスファンドはその動きを制するように、繋いだ手を外して一歩踏み出した。 「帝国人か」  ひゅうっと、口笛で答えられる。 「すごい、いまの一言だけで!? 気を付けたつもりなのに。決め手は発音の癖ですか?」 「そうだな。やけに単語が綺麗だった。文法と単語を別に覚えて組み合わせているような話し方というか」  青年はすらりとして背が高く、目元にわずかに燃えるような赤毛がこぼれている。瞳は青空よりも濃い群青。色の組み合わせが、確かにこの地域では珍しい。はるか遠く西の帝国を思わせる。  警戒するリーエンをさておき、青年は親し気な口調で続けた。 「へぇ。天才ってこういう感じなんだ。さっきまで飲み屋にいたって聞いて、まさかと追いかけてきて良かった。七歳のときに『医学典範』を七度読んで、記憶をたどって一字一句間違えずに書き記したとか、帝国までその名は轟いてますよ、エスファンド導師。マズバル王宮に逗留しているとは聞きましたが、まさか街でお会いできるなんて」  腰に帯びた短剣の柄を掴んだリーエンの手を、エスファンドの手がそっと包み込んだ。 「用件は」 「特には。顔を見てみたかっただけです。いずれ助力をお願いするかもしれませんので」 「帝国が、私に?」 「天才に、国境など意味をなしません。せっかくの天才が、国や人などに活動を縛られては勿体ないですよ。あなたほどの方なら、いずれこの地で学ぶものは何もなくなるでしょう。その折にはぜひ帝国へ。大歓迎です」  青年は、胸に手をあて、優雅に一礼をする。  顔を上げたときに、ちらりとリーエンを見た。何か言いたそうに、目に怪しい光が一瞬閃いた。  エスファンドは、面白くもなさそうに言った。 「あなたはまるで、帝国の代表のようだ」 「あははは。意外とそうかも」  軽やかに笑い飛ばして、赤毛の男は「ではまた今度、ゆっくり」と続けた。 「今度があるのか」 「この出会いを大切にしたいのはやまやまなんですが、今、人を追っていまして。あちらはあちらで見失うわけにはいかないので」  いかにも名残惜しい口ぶりで言いつつ、青年は軽く会釈して歩き出した。現れたときと同じく、風のように立ち去る。  その後ろ姿を見ていたエスファンドは、悩ましげな溜息をついた。 「先生?」 「うん。なんだろうねこれ。あまり良い感じはしないな。私は腕が立つわけではないし、お前にも無理をさせるつもりはない。ラムウィンドスかな」  国の要職にあり、その剣の腕には定評のある男の名をさりげなくあげて、エスファンドは空を見上げた。  何のためらいもなく口にされたその名に、リーエンは目を見開いた。 「ラムウィンドス様ですか? 今の男、それほどの何かが?」  帝国から来た人間が、何やら怪しい動きをしている。それをラムウィンドスに直に伝える必要性があるとすれば、それはもはや軍を動かす必要性そ想定しているということだ。  エスファンドは、リーエンの手を掴んだまま歩き出す。  耳元に唇を近づけ、ごく小さな音量で呟いた。 「どうも街の空気がおかしいよ。私からあまり離れないように」 
/265ページ

最初のコメントを投稿しよう!

78人が本棚に入れています
本棚に追加