はじまりの予感

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はじまりの予感

「姫君たち。少しお邪魔するよ」  軽い口調とともにドアを開けてライアの部屋を訪れたのは、背の高い神官である。  室内にいる二人の姫君を見回して、紫の瞳が輝く。 「現れましたね、アルス様……!」  ライアの前に腕を伸ばして立ち、セリスが進み出る。 「ここをどこだと思っているんだ。私の根城だよ。飛び込んできたのは姫だ。今日はまたずいぶん綺麗だね。それ、アルザイの趣味? わかる」  アルスはといえば、入口の壁にもたれかかって機嫌良さそうに笑った。今日は神官らしいゆったりとした法衣を身に着けて、髪は後頭部で軽く一房結った楚々とした佇まいだ。 「アルス、余計なことを言うな」  その後ろから、眉間に思い切り皺を寄せたアルザイが顔を出した。 「褒めただけだよ。血筋というのは恐ろしいね。こうもイシス様に似てしまうとは」  誰も止める間もなく、それが毒であるとも悟らせないほどのさりげなさで、アルスはその名を口にした。  「アルス」  出遅れた悔恨と痛みを滲ませた表情で、アルザイが咎めるように名を呼ぶ。  向き合った二人の肩の高さは、アルスの方がやや低い。しかし、傲然(ごうぜん)と顔を上げ、唇に笑みを滲ませたアルスは、王者の風格を持つアルザイにまったく引けを取らぬ存在感があった。 「お前だって、思い知ったんだろう。かつての『子どもたち』が誰一人として守れなかった女性だ。ああして同じ顔に目の前に立たれると、嫌でもあの日々が甦る。……どうする、今は手を伸ばせば届きそうだね?」  アルスは笑って、アルザイの胸を軽く片手で押した。  その手にナイフがあれば、容易く貫かれただろう。常のアルザイなら、たとえ相手が誰であれ許すはずがない行為。  しかし、アルザイはそれを防げなかった。アルスは笑みを深めて、唇をアルザイの耳に寄せて言った。 「無様だな」  どうやら話題の中心にいるはずなのに、まったく置き去りにされたままのセリスは恐る恐る口を開いた。 「アルス様は、わたしの母を、ご存知ですか」 「うん。知りたい?」  愛想の良い声。  セリスは凍り付いたようなまなざしでアルスを見上げる。 (この人笑っている。どうして) 「月の国(イクストゥーラ)では、まるで禁忌であるかのように誰もその名を話題にすることはありませんでした。いくらわたしが聞いても……。わたしも、深く知ることを、諦めました。父上とも、あまり話す機会を持てぬままで。兄様に王位を譲ってからは、王都を離れてしまいましたし」  話しているうちに、声に熱がこもる。抑え込んでいた感情が、堰を切ろうとしている。今にも、阻むものを乗り越えて、溢れ出してこようとしている。 「知りたくなかったわけじゃないんです」  アルスの笑みに吸い込まれるように、セリスは一歩踏み出す。目を逸らさぬまま。  動いたのはアルザイだった。  見えない柵を乗り越えるかのように、部屋に足を踏み入れる。広い肩でセリスからアルスへの視界を遮り、凍てついた表情をしたセリスの前に立った。 「今はやめておけ」 「何故ですか。わたしが明日も生きていると誰が保証できますか。あの人と話せるのは今が最後かもしれないのに」  握りしめたセリスの拳が白くなっている。  それをちらりと見下ろしつつ、アルザイは再びセリスの目を見た。 「時間が無い。お前が望むなら、後日必ず一席設けよう。ただ、今は駄目だ。今日この後の時間はすべて俺にくれ」  血の気を失っていたセリスの頬に、朱が差している。それが感情の昂りを表しているのは明白で、アルザイは深い溜息をついた。 「わたしの時間を……」 「そうだ。もしお前が今日死ぬのなら、最後に一緒にいた男は俺になる。俺と死ぬ気か。それが嫌なら明日まで生きろ。明日以降も生きろ」  声の響きに、深い迷いがある。  アルスは当然のこと、ライアも敏く気付いて無言のままアルザイへと鋭い視線を投げていた。アルザイは、表情にまで隠し切れない悩ましさを漂わせていた。  セリスはそのことをさほど意に介さず、深読みすることもなく、アルザイに対してまっすぐに強い視線をぶつけながら、明瞭な声で答えた。 「アルザイ様と死ぬのが嫌ということはありません。死に方なんて選べるものではないでしょう。でも、わたしが死ぬ状況ということは、アルザイ様も相応に危険にさらされることになりますね。何か悪い予感でもおありですか」
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