姫の中の姫への道

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姫の中の姫への道

 王宮に引っ越したその日の晩、セリスは愛用の日記帳を開いて一文だけ書き込んだ。 “まじめに勉強にはげむ”  * * *  幸福の姫君のお披露目。  当初の予定では、しばらくの間内輪だけの簡単な催しを何度か開き、その場で国内の有力者と順に顔を合わせるという手はずになっていた。  セリスは、これまで男という男に接したことがない。それどころか、ろくに目にしたこともないという、変わった事情まで抱えている。人なれ、男性なれするのが第一であるとされていた。  しかしここに大きな誤算があった。  極端に隔離された環境下にいたせいで、セリスは社会というものに対する意識が非常に希薄なのである。皆無に近い。奇妙なほどに幼い面がある。  それは、周囲を戸惑わせるには十分なほど。  セリスが王宮に足を踏み入れたその日の夜のこと。 「何しろ離宮は使用人の数が絶対的に少なく……。皆さん、最初は姫さまに厳しく厳しくしようとは努力はされていたみたいなんですけど、最終的にはこう、甘やかしてしまうというか。おかわいそうな方ですし……」  父王、兄王子を含むごく少数との顔合わせの夜会がお開きになって後。  冴えない表情をしたゼファードに呼び出された、セリス付きの侍女であるマリアは言葉を濁しながら説明した。自身にも思うところがあるのか、落ち着きのない様子で手をもみ絞りつつ。 「つまり、イクストゥーラ王国の王女にして、選ばれた予言の姫であるセリスは、そのものものしい身分を離れて、きわめて稀有な体験をしているということだね。あたかも一般庶民の家庭で家族に囲まれて育つような」 「ええ……。姫さまは、本当に親しみやすい方なので……」 「悪いとは言ってないよ。不自然な環境におかれていたのに、あのようにうつくしい心根を持ち、素直でまっすぐに育っていてくれたことを、私は喜ばしく思っている。周りの者の心がけが良かったのだろう。感謝する。なかなかいないよ、あれほど無垢な心映えの姫は。ただ難をあげれば、無垢すぎるね。王族っていうのは汚れ仕事だから。姫にはもう少し、したたかさが欲しいところだ」  ゼファードは思案するように目を伏せ、扇で口元を隠す。やがて、浅いため息をつき、扇でゆるく風を起こしながらひそやかな声で呟いた。 「自分が王族の一員だとわかっていないのは、少し問題だな……。そもそも、王族とは何かがよくわかっていないのが問題なのか。姫の素朴なところは魅力ではあるけれど、人前では今よりももっと淑女らしく振舞えるようになってもらいたいものだね。もし他国に嫁ぐことになった場合、本人が一番困ることになるだろうからね」 「他国へ……ですか?」  マリアが思わず尋ねると、ゼファードは扇の動きを止め、かるく目を見開く。すぐに笑みを浮かべた。 「そういうことも有り得るだろう。姫に求婚を考えている男たちは国内外にいる」 「でも、姫は繁栄を約束する『幸福の姫君』。姫のいらっしゃるところが豊かになるのを約束されるのだとすれば……」  そこでマリアは口をつぐむ。ゼファードが、ひどく優しく微笑んだからだ。 「もちろん、姫がわが国に留まってくれるのはひとつの理想だよ。けれど私は、幸福の姫君というのは、ただの象徴ではダメなのではないかと考えている。本人が不幸なのに、周りを幸せに出来るなんて、そんなこと考えにくいだろう? 姫は、おそらく姫自身の幸せがあって、はじめて周囲の者を幸せにし、世界を繁栄に導くことができる存在なんじゃないかと思うよ。だから、姫自身の幸せがこの国ではないところにあるのであれば、私は喜んで姫を、姫の望む場所に送り出したいものだと思う」  軽口を叩いているときとは違う、穏やかな口調だった。 マリアは手をもみ絞り、ひたすら感じ入ったように頷いていた。  ゼファードは、笑みを曖昧な苦笑にすりかえた。 「私がこう言っても、王宮の半数の人間はただ厄介払いしたがっているだけだと考えるだろう。あとの半分は、何を生ぬるいことを言っているのだと思う。姫自身の幸福を願う者が一体何人いるというのだろう。王宮とはそういう場所だ。私と姫は政治上難しい関係にあるし、何より王族に生まれついてしまった以上、個人としての幸せを追求したいなどというのは、許されることではない。困ったことだが、仕方ないね」  そこで一度話を切り上げ、その後は愉快そうな笑みを浮かべて片目を瞑ってみせた。 「そういうことだから、まずは姫には明日からめいっぱい勉強に励んでもらおう。引き止めて悪かった。おやすみ」  * * *  歓迎の夜会でろくに立ち回ることができず、ゼファードにかばわれ続けてさすがにこれではいけない、と。  落ち込むにいいだけ落ち込んで部屋に引き揚げていたセリスは、マリアからこの話を聞いてさらに落ち込み。  今後は絶対、兄に恥ずかしい思いをさせることのないよう、「姫の中の姫」になると心に誓ったのだった。
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