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人の流れの中で
そこにただ在るだけで、手癖のように偉業を編み出し、東国から西の帝国まで名を轟かす才人。
マズバル王宮の碩学と名高いエスファンドは、それなりに顔が売れている。
なにより本人が、一度出会った者の顔を、類を見ない正確さで記憶している。
「たぶんこれは、ラムウィンドスがいいと思う。どこにいるのかな。城下に出ていたりしない?」
東国人である弟子のリーエンを伴ったまま、エスファンドは雑踏で見かけた男に声をかけた。
「先生?」
リーエンが小声でエスファンドの袖をひきながら呼びかけると、「王宮で見た顔だ」とエスファンドはしれっと答える。
目の前に立つ中年の男は、薄汚れたターバンに、くたびれた生成りの貫頭衣を身に着けている。この町ではよく見かける装い。近隣をめぐる商人のような風情で、とても王宮に出入りする者には見えない。しかしエスファンドの黒曜石のような瞳には、揺るがぬ確信がある。
「あなたは例の隊商の件で動いている王宮の兵だよね。ラムウィンドスはどこ?」
おどおどとした男に、エスファンドは構わずに詰め寄る。
「導師、ご勘弁を。ラムウィンドス様は……」
男は視線をさまよわせるが、エスファンドにはその一言と仕草で十分だった。
「なるほど。あの人は立場上すべてにおいて『ちょうどいい』人材だ。表に出るよね、こういう時は。出迎えに行ったぁ」
得心したように頷いて言うと、歩き出す。
慌てた男が追いすがってきた。
「どこへ行かれますか」
「隊商は東門を通過して列柱道路を進み、四柱門を北に折れて、市場と神殿群の近くの野外劇場まで誘導する手はずだよね? さすがに噂の大所帯では、小分けにしても宿では受け入れかねるだろうし、運搬品を思えば人手を分散させるのもまずいだろう。みんなで野外劇場で野営、と」
エスファンドがすらすらと言うと、男は浅く溜息をついた。諦めが滲んでいた。
「ラムウィンドス様は先導をつとめておいででしょう。今しばらくは手が空かないかと。何か伝言でも」
暗に彼のひとの指揮下の兵だと認めた発言に、エスファンドは軽く頷く。
「いや、直接行く。あなたには何か仕事があるのだろう。引き続き警戒を」
雑踏をゆく人々の動きにはうねりが生まれている。
おそらく、稀なる大隊商を一目見ようと動き出した人が多数いるのだ。
じっと見返してきた男の目には、兵士として放つ鋭い輝きが現れている。兵として、立場の人間であることが知れる強いまなざし。
エスファンドが、前後の脈絡なく唐突に言った。
「変な帝国人がいた」
「変な?」
「赤毛の男だ。その辺にいるかもしれない」
伝えるべきことをさりげなく言うだけ言って、男に視線を向けて頷く。
すぐにふいっと顔を逸らして、雑踏に身を投じた。
リーエンがその背に追いすがる。
「噂の隊商が運ぶのは、帝国への朝貢品だと。無事を願いこそすれ、帝国人がこの場で手を出す理由はないのでは?」
「たしかに帝国には、手を出す理由はないだろう。先程のあの男が、そういった意味での問題を起こすとは私も考えていない。それよりはむしろ、中継地点のマズバルに様子を見に来たような……。それでなくても、普段の交易においては西の品も東の品もマズバルで荷下ろしされるし、取引されてそれぞれの地へ送られているんだ。ここを見ておくことには、それなりの意味があるはず。逗留中の帝国人も東国人も多い。本国と連絡をとる意味合いや、何かの他の理由で隊商と接点を持とうとする者も多いだろう。しかしなんだろうこの嫌な感じ」
言いながら、エスファンドは掌で顔をわしゃわしゃと雑にぬぐった。酔いを追い出そうとしているかのようだった。
黙して見守っていたリーエンは、エスファンドの妙に翳った声を気遣うように言った。
「東国人であれば……。隊商には僕の親戚もいるかもしれません。国を離れて久しいので詳しいことはわかりませんが、見知った顔があればわかります」
「そうか。お前、東国のいいところの出だったな。こんなところまで留学に来るくらいだ、そういった関係には知り合いもいるだろう。国に帰ったら外交も期待されているのかな」
話しながら人の流れに乗り、目抜き通りの交差点、四柱門を目指す。凱旋門から市内を東西に貫く幾本もの列柱が途切れて、町の四方向へと開けるそこへ、人の流れは続いている。
押されたりぶつかったりしながら、人々の熱狂の声を聞く。
リーエンは手を伸ばして先を行くエスファンドの袖をひいた。
「エスファンド先生……。嫌な予感がするのならば、近づくべきではありません」
肩越しに振り返る。
リーエンの表情を素早く見てとって、エスファンドは言った。
「逆だよ。嫌な予感がするから、行くんだ」
「答えになっていません」
袖をひいた手を、振り払いはしない。けれど引き留める力が弱いのをいいことに、エスファンドはもう止まらない。
指がエスファンドの衣から離れる。唇を噛みしめたリーエンはその場に立ち尽くす。
エスファンドは立ち止まりも、引き返しもしなかった。ただ、二人の距離が空くその瞬間をわかっていたかのように、エスファンドの手はリーエンの指のほっそりとした手を捕まえた。
「離れないように言ったんだが」
リーエンは俯き、答えない。
エスファンドは目を細めると、わずかに身をかがめて、ほとんど身長の変わらないリーエンの顔を下からのぞきこんだ。
「行くよ。どうもお前は私に今日町にいて欲しくないようだが、帰るつもりはないからね」
リーエンは顔を上げると、早口に言った。
「先生と一緒に行けません。ごめんなさい……っ」
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