翼無き少年

1/2
前へ
/265ページ
次へ

翼無き少年

 矢はその射線上に射手の姿を見出しやすい。    立ち上がったイグニスがすぐさま鋭い視線を向けたのは、連絡橋の先。西の建物の屋根の上。   深緑の衣を翻して、まるで自らを的に仕向けるかのように立ちはだかり、誰何(すいか)の声を上げる。 「どこの手の者だ!」  屋根の上には目元以外布で覆った、旅装束の人の姿があった。手足がすんなりと長く、身長の割に首筋から肩はほっそりとしていて、どこか未成熟な印象がある。その見た目を裏切らず、動作は抜群に軽い。  躊躇なく屋根より橋の上に飛び降りると、そのまま走り出す。  イグニスが剣を抜いたが、射手は素手のまま。剣先を読んだらしく、身の動き一つですり抜けてかわした。  ライアも、アルザイも、セリスも状況は見えていた。警戒をしていた。だが、射手は完全に目的を一つに定めていたらしく、素早くセリスに駆け寄った。  狙いを悟ったアルザイが無言のまま剣を抜く。  それは見越していたのだろう、射手はそのときはじめて声をあげた。 「たすけて」  若い、少年の声だった。  その声を耳にした瞬間、アルザイの動きに大きなぶれが生じた。躊躇と言って良い。覚束ない手元から繰り出された一撃を、少年は危うげなくかわしてセリスに手を伸ばす。  身を引いて逃げねば。  わかっていたはずなのに、セリスは動けなかった。理由はおそらくアルザイと同じ。 (()()()……?)  少年が、誰かわからない。  わからないが、わからないわけないだろうと記憶の奥底が刺激される。 (誰? 知らない。知らないはず。本当に? どうしてこの声で)  もどかしい思いに縛られたその一瞬を、彼は逃さない。  腕を伸ばして、セリスの首に巻き付け、引き寄せる。  色を成す、橋上の全員に、速やかに宣告した。 「動かないでください。この細い首は簡単に折れます」  嘘ではないというように、腕にぎゅっと力をこめる。セリスは声こそ上げなかったが、息が詰まり思わず顔を歪めた。  その場の全員の怒りをまともに向けられても、少年は動じることなく言った。 「姫をもらい受けます。あなたがたは騒いでください。襲撃を受け、姫を奪われたと」  その声には畏れも気負いもなかった。不遜さすらもなかった。それゆえに感情をうかがわせず、目的を気取らせぬ隙の無さを際立たせていた。 「誰だ」  アルザイが直截的な一言を放った。  少年は答えない。  ただ、セリスをとらえたまま一歩、二歩と後退した。すぐに、橋の腰高の縁に背がぶつかる。  状況としては、少年は追い詰められている。けれど、その状況を作り出したのは少年だった。  少年はセリスの耳元ですばやく囁いた。 「ゼファード様の名にかけて……」  言葉は、それきり。  だが、セリスはもう動けなかった。その名が出てしまったことで、抵抗の気力が削がれた。  何より、聞きたかった。 (兄様は、あなたに何を託しましたか……?)  姫を奪われたと、騒ぎを起こせ。そう言うからには、自分はこの人に奪われるのだ。  それは絶対に良くない。頭ではわかっているのに、心は協力したがっている。  セリスの身体から力が抜けたのは、触れあっている少年には伝わったのだろう。身体に巻き付いていた腕が、腰のあたりの一本になる。  自由になった手を縁にかけて、少年はセリスにだけ聞こえる音量で告げた。 「飛びます」  少年の身体が、ばねがはじけるように飛び上がり、セリスは咄嗟に少年にしがみついて声を上げた。 「わたし、死なないようにします!」  心配するであろうアルザイとライアに向けて、精一杯の叫び。  跳躍こそ高かったが、人の身に翼があるわけではなく、宙に浮けば落ちるのみ。  その落下地点を、少年はしっかりと計算に入れていたに違いない。  橋の下を通過中の隊商の列。ラクダに乗った男の頭に片足で着き、踏みしめる。 (わ~~~!! いまのひと、首の骨大丈夫!?)  セリスは少年にしがみついたまま首をすくめた。痛そう。  少年の続く二足目は、もう地上。  ラクダと徒歩の旅人の間で、突然の乱入に全方向から厳しい視線を叩きつけられているのに、少年はひるまない。  抑制のきいた声で、セリスに告げた。 「凶悪な誘拐犯を装いたいので、嫌がりながら叫んでください。下手な演技は不可です」 「無茶なことを!」  当然の抗議を、少年は目を伏せてつんと顔を逸らし、受け流す。  次の瞬間には、力強く走り出していた。              
/265ページ

最初のコメントを投稿しよう!

78人が本棚に入れています
本棚に追加