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翼無き少年
矢はその射線上に射手の姿を見出しやすい。
立ち上がったイグニスがすぐさま鋭い視線を向けたのは、連絡橋の先。西の建物の屋根の上。
深緑の衣を翻して、まるで自らを的に仕向けるかのように立ちはだかり、誰何の声を上げる。
「どこの手の者だ!」
屋根の上には目元以外布で覆った、旅装束の人の姿があった。手足がすんなりと長く、身長の割に首筋から肩はほっそりとしていて、どこか未成熟な印象がある。その見た目を裏切らず、動作は抜群に軽い。
躊躇なく屋根より橋の上に飛び降りると、そのまま走り出す。
イグニスが剣を抜いたが、射手は素手のまま。剣先を読んだらしく、身の動き一つですり抜けてかわした。
ライアも、アルザイも、セリスも状況は見えていた。警戒をしていた。だが、射手は完全に目的を一つに定めていたらしく、素早くセリスに駆け寄った。
狙いを悟ったアルザイが無言のまま剣を抜く。
それは見越していたのだろう、射手はそのときはじめて声をあげた。
「たすけて」
若い、少年の声だった。
その声を耳にした瞬間、アルザイの動きに大きなぶれが生じた。躊躇と言って良い。覚束ない手元から繰り出された一撃を、少年は危うげなくかわしてセリスに手を伸ばす。
身を引いて逃げねば。
わかっていたはずなのに、セリスは動けなかった。理由はおそらくアルザイと同じ。
(この声……?)
少年が、誰かわからない。
わからないが、わからないわけないだろうと記憶の奥底が刺激される。
(誰? 知らない。知らないはず。本当に? どうしてこの声で)
もどかしい思いに縛られたその一瞬を、彼は逃さない。
腕を伸ばして、セリスの首に巻き付け、引き寄せる。
色を成す、橋上の全員に、速やかに宣告した。
「動かないでください。この細い首は簡単に折れます」
嘘ではないというように、腕にぎゅっと力をこめる。セリスは声こそ上げなかったが、息が詰まり思わず顔を歪めた。
その場の全員の怒りをまともに向けられても、少年は動じることなく言った。
「姫をもらい受けます。あなたがたは騒いでください。襲撃を受け、姫を奪われたと」
その声には畏れも気負いもなかった。不遜さすらもなかった。それゆえに感情をうかがわせず、目的を気取らせぬ隙の無さを際立たせていた。
「誰だ」
アルザイが直截的な一言を放った。
少年は答えない。
ただ、セリスをとらえたまま一歩、二歩と後退した。すぐに、橋の腰高の縁に背がぶつかる。
状況としては、少年は追い詰められている。けれど、その状況を作り出したのは少年だった。
少年はセリスの耳元ですばやく囁いた。
「ゼファード様の名にかけて……」
言葉は、それきり。
だが、セリスはもう動けなかった。その名が出てしまったことで、抵抗の気力が削がれた。
何より、聞きたかった。
(兄様は、あなたに何を託しましたか……?)
姫を奪われたと、騒ぎを起こせ。そう言うからには、自分はこの人に奪われるのだ。
それは絶対に良くない。頭ではわかっているのに、心は協力したがっている。
セリスの身体から力が抜けたのは、触れあっている少年には伝わったのだろう。身体に巻き付いていた腕が、腰のあたりの一本になる。
自由になった手を縁にかけて、少年はセリスにだけ聞こえる音量で告げた。
「飛びます」
少年の身体が、ばねがはじけるように飛び上がり、セリスは咄嗟に少年にしがみついて声を上げた。
「わたし、死なないようにします!」
心配するであろうアルザイとライアに向けて、精一杯の叫び。
跳躍こそ高かったが、人の身に翼があるわけではなく、宙に浮けば落ちるのみ。
その落下地点を、少年はしっかりと計算に入れていたに違いない。
橋の下を通過中の隊商の列。ラクダに乗った男の頭に片足で着き、踏みしめる。
(わ~~~!! いまのひと、首の骨大丈夫!?)
セリスは少年にしがみついたまま首をすくめた。痛そう。
少年の続く二足目は、もう地上。
ラクダと徒歩の旅人の間で、突然の乱入に全方向から厳しい視線を叩きつけられているのに、少年はひるまない。
抑制のきいた声で、セリスに告げた。
「凶悪な誘拐犯を装いたいので、嫌がりながら叫んでください。下手な演技は不可です」
「無茶なことを!」
当然の抗議を、少年は目を伏せてつんと顔を逸らし、受け流す。
次の瞬間には、力強く走り出していた。
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