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──たすけて。
あの一言がいけなかった。ほだされる筋合いではないのに、躊躇いが生まれて、まんまとつけこまれた。
声が。
「クソが。なんだあのガキ」
吐き捨てるように言ってアルザイは眼下の混乱に目を向ける。
セリスを連れた少年は、隊商の列に突っ込み、流れに逆って四柱門を目指しているようだ。
誘導の名目でついていたマズバル兵も、隊商の護衛をはじめとした腕に覚えのあるであろう者たちも、突然の闖入者に罵声を飛ばしているが、少年の俊足は止まらない。
「見間違えでなければ、セリスは抵抗らしい抵抗をしていなかったわね。そう見えませんでした?」
アルザイのやや後ろに控えてライアが言うと、イグニスが同意した。
「月の姫自ら、誘拐に協力しているように見えた。あれは誰です、お知り合いですか?」
「知らん。少なくともオレは」
即座に答えたのはアルザイ。イグニスは無言でアルザイの顔を見返した。
「なんだ」
「べつに」
肩をそびやかす。
「お前の顔には俺に言いたい何かが書いてあるようだが、それはどうも俺の知らない文字のようだな。読めない。お前が何を言いたいのかさっぱりわからない」
絶対何か言いたい態度だろう、お前。
喧嘩腰の気持ちをねじこんでそう言ったアルザイに対し、イグニスはふっと小さく息を吐いた。
「ご冗談を。隊商都市の長殿は数か国語に長けていると聞き及んでいる。私の顔に書かれた文字が読めないとすれば、それは私の字が汚いせいかな。申し訳ない。以前、私の書いた作戦書が前線で解読できる者がいなかったばかりに大損害を出したことがあって。以来、文字を書く仕事は絶対するなと上からきつく言われている」
無駄口を叩いてから、イグニスはわざとらしく口を手でおさえた。
「今のは聞かなかったことに。あなたが誰かを私は知らない。長殿だなんて、私は聞いていない」
イグニスはアルザイに対し、「正体を聞くとやりづらくなるから、言わなくて良い」と宣言している。その茶番を続けるつもりのようだった。
アルザイは、ひくっと唇を震わせた。
二人のやりとりを聞き流し、セリスの行く末を見ていたライアがぽつりと言った。
「さすが。アーネストが追跡を開始したわ」
「おうおう、行くがいい。どうせ先頭のラムウィンドスに騒ぎが伝わるまで、時間がかかる」
興味を失ったようにアルザイが言い捨てる。
「『姫』を奪われても、ずいぶん落ち着いている」
イグニスがアルザイを見つめて、真意を窺うように目を細めた。
アルザイは視線を受け止めて溜息をつき、答えた。
「当の姫が落ち着いていた。あれで結構、肚が座ってるんだ。クソガキの目的はわからないが、隊列をひっかきまわしているせいで、順調に騒ぎが起きている。さて、オレは何をすべきかな」
「わかった」
イグニスは頷くと、腰をかがめて落ちていた矢を拾い上げた。
右手に持ち、振りかぶって左手に勢いよく突き立てる。
表情こそなかったが、刺さった瞬間、わずかに片頬がひきつった。
「『隊商の列から弓矢が飛んできて、無辜の旅人を傷つけた。どうもローレンシアの高官だったらしい。責任者出てこい』以上、あなたの部下に指示を願う。隊商の責任者を呼び出してほしい。私のこの怪我では足りないなら、あなたがたのどちらかにも同じ傷を負ってもらおう」
矢の刺さった左腕には、鮮血が滲んでいて脅しが嘘ではないことを示していた。
眉をしかめて見ていたアルザイは「了承した」と短く答えた。
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