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獲物
舞い上がる土埃。
動物の吐き出す、生暖かい呼気。
長く旅をしてきた者たちの濃い体臭が立ち込め、大音声の罵声や怒声に、金属のガチャガチャとした音が混じっている。
長旅から、今まさに解放を期待している男たちの獣めいた熱気。規律順守がゆえに抑制され続けた行動、欲望。出口を求めて暴れたがっている獰猛さが、その目が、突如として割り込み、逆行を開始した少年と自分へ余さず向けられているように感じられる。
(いけるの!?)
少年の腕に捕らわれたまま、セリスは慄然としてただただ歯を食いしばるのみ。
こんなの、無謀だ。
しかし、セリス一人を抱えていながら、軽やかに疾駆を続ける少年は飄々としている。
「お姫様、軽そうに見えたけど、腕がしびれてきた。まっずいな」
「それはごめんなさい」
「もっとしがみついて。その方が楽。首に腕を回して」
(誘拐犯に協力を要請されています)
セリスは無言のまま肩から首に腕を伸ばして力を込めた。
少年の顔の中で布に覆われていないのは、目元だけ。前を見つめる黒い瞳。左右から刃物を向けられ、頭上から銀の閃きが降ってきても、間一髪でかわしている。
自信がある。
落ち着いている。
この場を支配しているのは自分だと、確信している。
「どこへ!?」
「舌、噛みますよ」
少年が跳ねる。
(この人には。本当に、翼が無いのだろうか)
地を蹴って、ラクダに跨った男の腿を踏みつけにし、加速するようにさらに飛び上がる。
寒気がするほどの、豪胆さ。
これでは、遠くまで姿をさらすことになる。
「的にされます」
「姫が俺の急所をかばってください」
命知らず、とセリスが言えば、少年はセリスに目を向けることもなく答えた。言い争う余裕はなく、セリスは首にまわしていた手を差し伸べて少年の後頭部にあてた。
(射抜かれるわけには。狙われていない?)
セリスは素早く視線をめぐらす。
ラクダの上で弓を構える者を視界にとらえた。その男の目を見つめて、叫んだ。
「射たないで……っ!」
涼やかで、よく通る声。
状況もあって、セリスの切実な表情にも嘘はない。
少年の動きの早さゆえに、目を合わせられたのはほんの一瞬。それでも、セリスの翡翠の瞳に射すくめられた男は惚けたように弓を構えていた手をおろした。
「すごい」
一連の出来事を見ていたとは思えないのに、少年が噴き出した気配があった。
或いは、他にもセリスの声に負けて武器を下ろした者がいたのかもしれない。
伝わる振動にセリスは時節強く歯を食いしばってこらえながら、呻いた。
「あなたが兄様の名を出すからっ」
「名など。呼ぶのは自由です」
人の背を蹴って、少年が再び降下し地面を踏みしめる。
ひっかきまわすような動きに、隊列が崩されている。怒号が響き渡る。
振りかざされた曲刀を動き一つでかわして、足を止めた一瞬、少年が囁いた。
「何故俺を信じました」
セリスは目を閉ざした。
息を整える。
早い息遣いが聞こえる。自分のものではないそれを追いかけて、答えた。
「声」
少年が、はあ、とやや大きく息をついた。
呆れたのか、それとも疲労ゆえか。
セリスが何かを言う間はなかった。
「どこの手の者か知らんけど、ようやってくれたなっ!」
聞き覚えのある声が響き渡り、セリスは顔を上げた。
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