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呼び声は、空へ。
力強い羽音ともに、大きな黒鷲が飛来し、人々の頭上に爪をかすめさせながら滑空する。
痛みを伴った者もいるのだろう、悲鳴が上がり、鷲に頭を蹴られたラクダが顔を振って暴れ出した。
口元の布を戻した少年は、再びセリスの手を引き走り出す。
「逃がさへんで!」
当然のようにアーネストが追撃してくる。
誘拐よりも少年に隊列を攪乱されたことに怒りをぶちまける者たちと、アーネストは使命感が違う。
少年は振り向きざま、大きな声で言った。
「これは略奪の先駆けだ。オレはこの女をもらった。出遅れると残り物しかないぞ!」
セリスの、着飾った清楚な装いや人目を惹きつける清らかな容貌はまさしく。
見る者には「極上の獲物」であること疑いなく。
ざわりと空気が変わった。
自分に向けられる視線が、どろりとした欲望と耐え難き渇望に炙られて物欲しく高められるのを感じた。その視線に、服を引き裂き肌を嬲られる錯覚。
「おまえ……」
唸るような声がどこかからかもれる。
セリスは翡翠の目を見開く。鋭い眼差しで受けて立つ少年の、超然とした落ち着きがなければその場に頽れていたに違いない。
これは危険だ。命だけではない、何かもっと根源的なもの、自分の、絶対に傷つけられてはならないものが狙われている。
(何故こんな挑発を!)
全身が緊張している。それは、四方より向けられる視線の質があまりにもあからさまなせいだ。
隊商を成していた男の一人が、曲刀を抜いて声を張り上げた。
「その女を寄越せ!」
騒乱の、暴動の開始を告げるその一言を引き出した少年はアーネストに向かって言った。
「姫を守って」
男の数人が殺到した。その狙いは火を見るよりも明らかだった。
瞬時の判断を迫られたアーネストは、冴え渡る青の瞳を見開いてセリスを見る。
セリスは、ただ見返すことしかできなかった。
少年はセリスを素早く離して剣を抜き、ふりかざして肉迫してきた男の剣を受けた。
相手は一人だけではない。
別方向から来た男を防ぐべく、剣をかざして立ちはだかったのはアーネストだった。
少年とアーネストが背を合わせ、その間にセリスは立つ形になる。
「略奪って言うたな」
呼びかけは少年へ。
「誰も意外そうな顔をしていないだろ」
確信に満ちた響きだった。
(予期……いえ、知っていた? この男たちの目的を? ……隊商は都市で略奪を働く気なの?)
「これはこれは。男か? しかしすごい美貌だ」
対峙した男に舌なめずりをされて、アーネストは露骨に顔をしかめた。
そうでなくとも、美貌の青年に、清楚な姫君、未成熟な少年。
与し易しと侮られるには十分な編成だった。
そしてまた、垂涎の獲物であるのは痛いほどに感じられた。
「……逃げましょう」
セリスは言うなり、人の隙間めがけて駆けだす。
「あ、こら、逃がすな!」
男たちが追いかけてくる。正面にいる男など、薄笑いを浮かべて待ち構えている。
そこに、追いついてきた少年がめざましい早さで切りかかり、男の腕の一本を肘の先から空へと跳ね上げた。
血の赤が降る。
「後戻りできへんな」
後ろを守っているアーネストが苦い呟きをもらし、不意に声を張り上げた。
「隊商の一部が暴徒化した! 姫君が狙われている!!」
少年が隊列を突破して、道沿いの日干し煉瓦の建物と建物の間の隘路に飛び込む。
セリスとアーネストも続いた。
背後では騒ぎが瞬く間に拡大していく気配があった。
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