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密約或いは
夕刻。
隊商宿近くの泉に面した迎賓館に、隊商の長セキと警備責任者であるラムウィンドスは呼び出されていた。
──市内に入り込んだ隊商の一部で暴動が生じた。宿に逗留中であったローレンシアの高官が流れ矢にあたり負傷。また、暴徒化した隊商の一員によって高貴な女性が攫われて行方不明。女性を巡るいざこざがあり、数名が略奪に走ろうとした──
騒ぎの知らせがあってから、セキの表情はくもったまま。ラムウィンドスに至ってはもともと少ない愛想と口数が完全に干上がっていた。
絨毯や長椅子、卓といったすべてが瀟洒で繊細に整えられた部屋にセキと側仕えの男を通し、ラムウィンドスは断りを入れて廊下に出る。
その足で向かうのは同じ階の一室。
常より表情の乏しい顔には、怒りも焦燥もない。ただ眼光の鋭さだけがいや増している。
「入ります」
ドアの前に立つ兵士に視線を向けてから、中に声をかけ、兵にドアを開けさせる。
なぜか立ったまま居並ぶ面々をゆっくりと見渡しながら、後ろ手でドアを閉める。
「何があったのか、手短に」
お忍び仕様の主君、見慣れぬ赤毛の青年、故国を出奔した元王女。ラムウィンドスの射殺すほどの視線にさらされて、口火を切ったのは赤毛の青年だった。
「ローレンシアのイグニスだ。あなたがラムウィンドスだな」
紺碧の空のような瞳が、張り詰めた様相で細められる。
「警備を指揮していました。この度は私が至らぬばかりに。怪我の方は大事ありませんか」
名を呼ばれたラムウィンドスは、表情に変化こそなかったが、声は穏やかで気遣う調子はあった。
「ありがとう。傷は浅い。手当も迅速だった」
誠実そうな顔で受け答えするイグニスの横顔に、アルザイとライアが両側から物言いたげに見る。
ラムウィンドスは、アルザイに視線を定めた。
「状況を」
アルザイは小さく嘆息して、ラムウィンドスに目を向ける。黒の瞳には陰鬱な色があった。
「セリスが攫われた。まだ見つかっていない。名は伏せているが、『高貴な女性』はセリスだ」
告げられた名。ラムウィンドスは瞬きすらせずにアルザイをじっと見つめる。そのまなざしの強さを受けかねたように、アルザイはわずかに横を向いて目を伏せた。
「あなたがついていて」
音も無く、ひそやかにラムウィンドスが歩を進める。
アルザイの前に立ち、手を伸ばす。頬にこぼれた黒髪を指で摘んで、温度の無い声で続けた。
「街を焼いてでも見つけ出す」
「よせ。お前が言うと冗談に聞こえない」
ラムウィンドスの手を払いのけたアルザイは、思い余ったように付け加えた。
「というか、お前が冗談を言わないのは知っている」
「たまには言います。普段、俺の話をきちんと聞いていますか」
「なんだろうな。お前にそれを言われると複雑だ。そっくりそのまま返したい」
「不要です。俺は人の話をきちんと聞いていますから」
天地神明にかけて偽りはないとばかりに正々堂々はっきりと言いきられて、アルザイは「嘘だろ」とごく正直な思いを吐露した。
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