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もう一つの騙し合い
──時は少し戻る。
「う……」
エスファンドは腹をおさえてその場に膝をついた。
「いたたたたたたたた……」
立ち去ろうとしていたリーエンは、二、三歩進んで立ち止まる。
今にも雑踏に飲み込まれそうな師の姿を何度見かしつつ、振り切るように背を向ける。
「いたい……死ぬ……」
エスファンドはがっくりと頭を垂れて呻いた。
背でその声を聞きながら、リーエンは前に進もうと足を上げて。
「先生は医学の心得があるでしょう!? ご自分でどうにかしてください!!」
振り下ろした足の向きは、後ろ。
喚きながら、エスファンドのもとへと引き返した。
「ああー、痛い。死ぬかもしれない。これは死ぬ。きっと死ぬ。どうしよう、世界の至宝たる私が失われてしまう……」
「はいはい、元気元気。立てますか? 踏みつぶされますよ、世界の至宝が」
口調こそ苦々しかったが、リーエンはエスファンドの横に素早く膝をつくと、肩を貸して腕をまわさせる。
「道の端にお連れしますから、あとはご自分でどうにかなさってください」
「私に……誰にも看取られずに死ねと……」
「死ぬとか、嘘でしょう……っ!! 絶対に嘘だと思うんですけどっ」
地団太を踏む勢いで文句をつけつつも、よれよれのエスファンドに道の先を指さされて、リーエンはその指示に従ってしまった。
「どこまでですか」
「この先に、私が懇意にしている宿がある。そこまで……」
「遠いんですか」
「……あっ……痛……っ。リーエン、もっと優しく。揺らさないで」
注文をつけてくる師に、リーエンは噛みつきそうな視線を向けた。
「仮病だったら許しませんよ」
「うん……」
間近なところにある師の、彫刻めいた彫りの深い顔には苦渋が滲んでおり、目はきつく閉じられている。
「なんなんですか。食あたりですか……」
段々と声の勢いを失いつつ、耳元で呟かれる指示に従い、リーエンは路地の奥へと向かった。
角を曲がったり、入り組んだ路地を進んでいるうちに、目指す宿にたどりついた。
自分とほとんど体格の変わらぬ師に思い切り体重をかけられていたリーエンは、さすがに苦し気な息をこぼしている。
「先生、着きましたけど。あとはご自分で」
「私がきちんと掛け布にくるまるところまで見届けてよ」
「嫌ですよ。ごじぶ……」
言い返したいのに、普段は飄々として強気な師が、歯を食いしばって細い息をもらしているのを見ると、つい強くは出られなくなるリーエンである。
師の指示に従い、宿の者に声をかけると、かなり奥まった一室まで通された。
窓のすべてに日除けの布が下ろされた薄暗い室内に足を踏み入れ、そのまま進む。
「どこへ」
「奥庭へ出られる。四阿へ。誰にも邪魔されない……」
その辺の長椅子やクッションの上に投げ出して行こうとした考えを見透かされたようで、諦めてリーエンは外へと踏み出す。
贅沢なまでの濃密な草木の匂いが、肺腑を満たした。
タイルを踏みしめ、藪を避けながら繊細な彫りの施された石造りの建物へと足を進める。
広くはない室内は清潔に整えられていて、隅には布の張られた低い寝台があった。ほっと吐息をもらして、リーエンはそこに師を下ろす。
「僕はここまでです」
立ち去ろうとしたリーエンの手を、素早く起き上がったエスファンドの手が掴んだ。
「先生」
「話がある」
普段通りの師の声に、リーエンは暗澹たる溜息をもらした。
「騙された。仮病だった」
「リーエンは、私に騙されたくて騙されたんだ。もう遅いよ。それに、悪い話ではない」
「僕は行きます」
手を振りほどいたリーエンは、そのまま去るべきであった。しかし、本当にはずみのようになぜか振り返ってしまった。
エスファンドの、濡れたような黒瞳がリーエンをまっすぐに見上げていた。
「リーエン」
唇が、名を呼ぶ。
立ち尽くしたリーエンの手に手を伸ばし、今一度掴むと、軽くひいた。
「ここに座るんだ」
「座りません……」
「じゃあそのままでいい。君は聡明だ。そこを国元で見込まれたんだね。男の姿をした留学生として王宮の私の許へ現れ、存分に勉学に励んでいた。だが君に期待されたのは、おそらくそれだけじゃない。君の容姿は、瑞々しく十分に人目をひく。いざというときはその女性である身体を使って、私や王宮の誰かを篭絡するように言いつかってきたんじゃないか?」
リーエンは目を軽く瞬いてから俯き、唇を引き結んだ。
エスファンドは構わずに続けた。
「いいよ、篭絡されてあげよう。私がラムウィンドスに助言に行かないように、君はここに私を引き留めるんだ。街で何かがあっても、ここまで伝わるのは遅れるだろう。誰にも邪魔されない。二人だけだ」
もはやリーエンが出て行くそぶりもないのを見て、エスファンドは手を離すと、ゆっくりと寝台に身を横たえた。
「先生……」
弱り切った声をもらして、リーエンは寝台の傍らに膝をつく。
四角く開いた窓の外から、薔薇の芳香が流れ込んで立ち込めていた。
「僕は」
寝そべっていたエスファンドは、片目を開いてちらりとリーエンの顔を見た。気安いところがあるくせに、感情を悟らせない黒曜石の瞳が、じっとリーエンを見ていた。
「女に戻る覚悟はついたかい?」
リーエンは、眉をぎゅっと寄せてきつく目を瞑る。
唇が震えながら言葉を紡ごうとした、そのとき。
「人がいるとは思わなかった」
二人のものではない、乾いた声が響いた。
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