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雲はあるか
「軍司令官」
二、三の指示を部下に残して迎賓館を後にしようとしたラムウィンドスに、追いかけてきた男が声をかけた。
肩越しに視線を流し、わずかに歩調を緩めたラムウィンドス。
その横まで男は小走りで急ぎ、並び立つ。
陽が傾いて暑さがひいてきたせいか、日除けの類は身に着けていない。先程室内で見た通り、茶色の髪も上品そうで無骨なところのない素顔もさらしたまま。
「イグニスの護衛官、ラスカリスです」
名乗りをあげてもラムウィンドスの反応が薄いのを見て取り、ラスカリスは素早く続ける。
「野外劇場まで同行をお許し願いたい。人を探しています」
迎賓館は、その玄関口から通りまでの前庭に見事な彫刻が施された列柱が立ち並んでおり、頭上に屋根が渡されている。列柱の間から覗き見える、よく手入れされた草花や人物を象った石像は黄昏の色を帯びていた。
暮れゆく光を整った横顔に受けたラムウィンドスは、前を見たまま口を開いた。
「構わない。誰を探している? 人手は必要か」
そっけなくも親切に言われて、ラスカリスは「ええとですね」と髪を軽くかきあげながら言った。
「私は砂漠の事情にさほど明るくないのですが。現イクストゥーラ王と、あなたと、マズバルのアルザイ様はかつてあった国同士の交流により、幼馴染の仲にあるというのは間違いないですか」
「間違いない」
ほっと、ラスカリスは小さく息を吐き、ラムウィンドスの横顔を見ながら続けた。
「そういう方が、アルファティーマにもいます。つまり、我らがローレンシアの主と極めて親しい王子が、アルファティーマにもいます。幼い頃帝国に遊学に来ていた、エルドゥス王子。実質人質であったのですが。主と王子はとても親密な仲にあり……」
「状況は理解できる。それが何か」
聞く姿勢にはあるが、無駄話を許す気はない。
厳格さを滲ませた応答に、ラスカリスは早口に言い募った。
「アルファティーマの王族は世襲制ですが、その後継者選びは苛烈です。選ばれなかった王子は、王位を継いだ兄弟によって処刑される慣例がある。今は次代の王を三人の王子で争っています。エルドゥス様は溢れるほどの才覚に恵まれていますが、末の王子。帝国にいた期間が長いために、故国での地盤固めも弱い。このままではおそらく争いに敗れて命を落とす。……我が主はあの方をローレンシアの総司令官に迎える準備をしています」
一息に言い切ったラスカリスに、ラムウィンドスがさめた視線を投げた。
「アルファティーマの王子に、故国を裏切らせるのか」
「アルファティーマに留まっても、いずれ兄弟と争った末に殺される運命です。同じく争うならば、ローレンシアの軍を使えた方がエルドゥス様にとっては都合がよろしいでしょう」
誰の都合だよ、とラムウィンドスが軽口を叩くことはなかった。ローレンシアは対アルファティーマの要に当のアルファティーマの王子を迎え、運命を共にする覚悟がある、という話である。おいそれと茶化せる内容ではない。
ラムウィンドスは物憂げに前方を睨み据えて、言った。
「帝国は近頃政変があったと聞く。次に立つのは女帝とか。あなたがたの主は噂の姫君か」
「左様に」
列柱廊を進んできた兵士とすれ違う間、ラムウィンドスは口を閉ざしていた。
やがて言った。
「姫君と幼少のみぎり親交のあった末の王子。信頼に足る人物なのか」
「お二人の絆においては、疑う余地はどこにもないのです」
ラムウィンドスは一瞬目を伏せた。夕陽を浴びた睫毛が、頬に優美な弧を落とした。
「隊商にその王子が同行していると?」
「穏便にローレンシアに帰る手段として、まず間違いなく。この話は、いまイグニスからあなたがたの黒鷲にもしていることかと思いますが」
「『帰る』と言ったか」
ラスカリスの力強い言葉を思わずのように繰り返して。
ラムウィンドスは、ついに笑みをこぼした。
部屋の中で対面したときより、冷たく整った顔しか見ていなかったラスカリスは、その目覚ましいまでの表情の変化に刮目した。
あっはっは……と明るい笑い声を立てつつ、ラムウィンドスは歩みは止めない。
遅れそうになって、早足で追いすがる。声をかけようとするも、ラスカリスは何も言えぬまま唾を飲み込んだ。
うまく言葉が出てこないのだ。その朗らかな横顔に、ただ目を奪われた。
太陽の生き残り。
マズバルに身を寄せて、君主には重用されているという彼にまつわる噂話は、注意深く収集はしていた。しかし、伝え聞くどの話よりも、実物の彼は鮮やかでいて、その姿を見る者の胸に焼き付けてくる。
「軍司令官……」
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