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「この場所は不宿の四阿と聞いていました。何かあったらここへ向かえと……」
誰かから受けた指示をなぞるように口にするロスタムに、エスファンドは微笑みかけた。
「正しい。ここは私の隠れ家だ。常に私の為に整えられているが、私がここを訪れることは稀だ」
外は陽が落ちてきて、室内は薄暗い。
「灯火は」
四阿の周囲を確認して戻ってきたアーネストが言った。
「点けて構わないよ。今日はここに私がいるんだ」
相変わらずリーエンは床に転がされたまま。寝てしまったかのように動かない。
セリスは気にしたが、エスファンドに放っておくように言われたため、手を出しかねていた。
「着替えなら少しはある。私のものだが、マリクでも着れないことはないだろう」
エスファンドは部屋の隅の衣装箱を示して言った。
アーネストの帰りを待っていたセリスは、師に礼を言って服を借りることにした。断りを入れて箱を物色して、適当に見繕う。衝立の裏で着替えようと足を向けたところで、ふと視線を感じて顔をめぐらせた。
空恐ろしいほどにうつくしく冷たい青い瞳が、セリスを見ていた。
「アーネスト?」
声をかけると、アーネストはふっと息を吐いてゆっくりとセリスに歩み寄る。
翡翠の瞳を見つめ、ついで紅を差された唇に目を留め、再び視線を絡める。青の瞳には、熱がこもっていた。
「綺麗やね」
溜息まじりの掠れ声。
セリスは片腕に衣装を掛けると、空いた右手をアーネストの耳元へと伸ばす。青い石のはまった耳飾りにかすかに指先が触れた。
「それ、使ってくれてるんですね。耳を傷つけてしまいましたが、痛くはないですか」
アーネストは忙しさを感じさせない、それでいて素早い動作でセリスの細い手首を掴んだ。
「痛い。ずっと痛い」
「大丈夫ですか? 化膿したのでは」
触られるのが嫌で、手首をおさえられたのだと、セリスは信じて疑っていない。
指がまわってしまうほどに細い手首の内側を、アーネストが指の腹でゆるゆると刺激していることなど気にしてもいない。
「今日のその格好。あいつにも見せたかったんやろうね」
「あいつ……。ええと、最近、だらしないところばかり見せてしまって。そういう意味ではきちんと正装できるのだと見せたかったかもしれませんが。でもいいんです、もう」
誰のことを言われたかはさすがに察したセリスは、ごもごもと言い募って俯き、口を閉ざす。
「だらしないところ?」
追及するアーネストに、笑いながらエスファンドが声をかけた。
「マリクは研究に熱中するあまり、何度か倒れている。寝てしまうんだ、子どもみたいだね。それをいちいちラムウィンドスが回収に来るんだよ。忙しいくせに、面倒見がいい」
カッと頬を染めたセリスがエスファンドを睨みつけた。
「あの人だと知らなかったんです。ずっとアーネストだと思っていて。隙だらけだったのは、迂闊だったとは思いますが」
「オレ?」
アーネストがセリスを掴んだ手にぐっと力を込める。強すぎて、セリスは小さく顔をしかめてアーネストを見た。
「神殿に行ってると知らなくて」
「十日間も? 興味がなかったんかな。悲しいわぁ」
「そうじゃなくて! 忙しくて顔を合わせないのかなと思っていたんです。気にしてはいました。だけどずっと側にいると思っていたから」
あまりにも当たり前のように、寄り添って二人で旅をしてきた、その日々のせいで。
アーネストは小さく笑った。セリスの目を惹きつけて、逸らさせずに不意に体を傾けて唇を耳に寄せる。
「……側にいたかった。姫さまを守るのはオレだよ。だから今ここにいる」
戒めのようにとらえていた手を放し、踵を返した。セリスに背を向けて、肩や首をほぐすように動かしつつ室内を大股に横切る。
「早く着替え。……ああ、久しぶりのお姫様服やからね。一人で着替えられんようなら手伝うで」
「できます!!」
軽く茶化されて、強気に言い返し、セリスは衝立の影に身を隠す。
やりとりを見ていたロスタムは、側に来たアーネストをちらりと見上げて言った。
「懸想しているのか?」
「しばくぞガキ」
しばく……? と首を傾げるロスタムをよそに、アーネストはエスファンドに目を向けた。
「さて『先生』? 迷い子のオレらに、ありがたい助言を頂けるんかな」
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