【間章】 君の名は

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 セリスがあらかじめ考えていたのは、厨房の裏口を抜けて出て行くルートだ。  離宮の周囲にも見張りはいるが、裏口を抜け、森に入り大きく迂回して正面に回り、王宮への一本道に出てしまえば大丈夫だと踏んでいた。 (王宮の父上にお会いして、お外へ出る許可をいただくの……!)    父王がセリスのことをわからなかったらどうしようという不安はあったが、大丈夫だろうという気もしていた。  女官達がうつくしいと誉めそやすセリスの銀の髪。それは王家の血をひく証なのだという。  たとえ父王がセリスの顔を知らなかったとしても、髪を見れば気付いてくれるはず。  足音を忍ばせて厨房へ行く。  開け放たれた戸口からは光が溢れており、金属の器具が奏でる明るい音にまじって、話し声がした。  ドアに手をかけてそっと中をのぞきこんだセリスは、二人いた女性司厨士たちの目が向いていないことを確認し、死角となる台の影まで走りこむ。朝食の下ごしらえをしているのだろうか、いい匂いが漂っていた。  司厨士たちは忙しそうに立ち働いている。気付かれた気配はない。しかも、幸いなことに裏口も開いていた。  台の影をつたって、途切れるところまでくると、セリスは一度立ち止まった。ここからは一気に走り抜けなければいけない。司厨士のどちらか一人が振り返ってしまえば、そこで捕まってしまうだろう。 「そろそろ焼けたかな」  ふと一人がその場にしゃがみこんだようだった。  外に出ることがゆるされないセリスは離宮を隅々まで歩き回っていたので、厨房のこともよく知っている。かまどをのぞいているに違いない。  ふんわりと、濃密な甘酸っぱい林檎の匂いが漂う。 「うん、良さそうね。きれいな焼き色。姫様、お気に召してくれるといいんだけど」 「姫様は本当においしそうに食べてくださるから、次は何を作ろうかなってはげみになるわよね」  立ち聞きしてしまった会話に気を取られ、セリスは少しそわそわした。 (明日のおやつ……! 食べたい、けど)    もしいま逃亡したら、食べることができない。心がぐらつきかけた。  そんな浮ついたことではいけないと自分に言い聞かせる。小さな頭を振って、必死に匂いを追い払う。  そのとき、身を隠している台のすぐ横、手を伸ばせば届きそうなところに、籠があることに気付いた。真っ赤でつやつやした林檎が見える。セリスはそっと林檎を一つ手に取った。  話し込んでいた司厨士たちは、ふと、風が抜けた気配を感じて顔を見合わせた。 「……いま、何か動いた?」 「ねずみかしら?」  二人があたりを見回したときには、セリスはすでに裏口を出て、夜の中を走っていた。  * * *  少し走ると、無事に裏の森についた。  離宮を離れられないセリスがほとんど唯一出られる外の世界。  何度か来たことがあるが、奥まではわからない。だが、躊躇ってはいられないと足を踏み入れる。  雨はまだ降っていたが、森に入ったらあまり感じなくなった。それでも、すでに服が湿ってしまっていたので、進むほどに身体が冷えてくる。  興奮もさめてきて、段々と心細さが募ってきた。  大きな影の塊となった木々は圧倒的で、星明かりも月明かりもなく辺りはあまりに暗い。  木から木へと手探りで進んでいたが、すぐそばの茂みでガサガサと物音がした瞬間、凍りついたように足が止まってしまった。  怖い。  封じ込めていた恐怖が、あふれ出す。  怖い。怖い。怖い。暗くて、寒くて、何も見えない。怖い。  身体力が抜けてゆき、ゆっくりとその場にしゃがみこむ。もう一歩も進めない。俯く。  耳を澄ませても、雨の音しかしない。  そのまま、どれだけの間そうしていただろう。  ふと顔を上げると、遠くでぼんやりと光るものがあった。  セリスは林檎を両手で持ち上げると立ち上がった。丈の高い草に足が傷つけられ、木にぶつかっても、進む。 (もうすぐ)  前触れなく。  肩をぐっと引っ張られる感覚があった。  息が止まる。  胸がぎゅっと縮むように痛んだ。  恐れを封じ込めつつ首を回してなんとか見てみると、低い位置に飛び出した枝にドレスを引っ掛けてしまっていたらしかった。 「……もう少しなのに……」  外したいのに、手が届かない。  鼻がつんとして、喉が詰まった。  セリスは懸命に身体をひねって逃れようとした。ガサガサと音が鳴り続け、周囲に気を張り巡らせていたことも忘れ格闘する。 「誰かいるのか?」
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